何年か前、「定年後の夫」の取材先で(そういう本を書いたのです)、お茶を運んできた妻に頼まれた。
「ねえ、この人に言ってやってくださいよ〜」
初対面でも、数分でお友だちになるのが私の特技なので、しばしばこういうハメに陥った。その度に、「もうーっ、自分で言えばいいのに」と思うのだけれど、そばに味方がいないと言いにくいことが妻にはたくさんあるらしかった。
妻は言う。
「定年になったら、夫はお昼ごはんくらい自分で作るのが、世間の常識ですよねえ」
世間の常識かどうかは知らないけれど、「ですよねえ」と同意を促されれば、「そうですねえ」と言うしかない。
おまけにお調子ものの私は、つい、「食卓に座って、ご飯まだ?と夫に待たれているとウンザリする、と多くの妻が言っています」と付け加えたりして、「ほらあ、そうでしょう」と、喜ばれたりした。
妻でもないのに、妻の代弁者。私って、何者?とよく思ったものだった。
その、代弁した妻の1人と、先日、再会の機会があったのだが、聞けば、彼女の夫は、あれ以来、家事に開眼したそうな。
「おかげさまで」とお礼まで言われて、うつむいてしまったけれど、彼女の夫は、ちょっと手を出したら、そのまま家事にハマってしまったらしい。
朝は犬の散歩に始まり、朝食、昼食、時に夕食も。買い物もゴミの分別も。ついに庭で野菜作りまで始めたという。
「彼の第二の職場が家庭になったのね。仕事以外の趣味の全然ない人だったけど、意外!」
ま、そうなったらなったで、いろいろ男は面倒。家事に理屈を持ち込むので時にウンザリするそうだけれど、「ボケ防止になるし、いいと思ってえ」ですって。
ほとんど、夫自慢をされたわけだけれど、キッチンに2人で立って、「あれとって」「これ切って」と会話も増え、どうも「再恋愛」中らしいのだ。
定年後の夫婦で、ここまでうまくいっている事例を私は知らない。知らないけれど、家族がでれっとテレビを見ているときに、来る日も来る日も、何十年もひとりでお皿を洗っていた妻の孤独を思えば、キッチンに夫と2人でいられる関係は、なにものにもかえがたいのかも。そう、定年後に妻と仲良くやる方法なんて、ほんとうは簡単なのかもしれない。
一人暮らしの私は、時には、「ご飯、まだ?」と誰かに言われてみたいけれど。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2008/11/28)