産経新聞社

ゆうゆうLife

(96)共有する時代の記憶

 人の顔が覚えられない。

 最近、誰かに会って、「ほら、あの時の…」とか言われ、「そうでしたね。お元気でした?」などと笑ってごまかすことが増えた。

 逆に、顔は覚えているけれど、名前が全然、浮かばないということも増えた。

 以前なら、私ってもの覚えが悪いのよ、で済ませていたけれど、60歳を過ぎると、いよいよかしら?とか、ついに…とか思って、時々、ゾッとする。

 同世代に話すと、「みんなそう。私たちは、そういうお年ごろなのよ」と慰めてくれるので、そんなものかなあ、とは思う。

 が、しかし。

 先日、自動販売機で地下鉄の切符を買ったら、どういうわけか切符が出てこない。

 「あらあ、どうしたのかしら?」と驚き、かつ呆然(ぼうぜん)として突っ立っていたら、連れの人に「行き先ボタンを押してくださいっ!」と言われて、ゾッとを通りこして、気が遠くなった。

 私、もう、駄目かもしれない、と、同世代に話したら、「今さらじゃないでしょう。あなた、昔っから、そうだったじゃない」と言って慰めてくれた。

 そういう彼女も、最近、勘違いが増えた。待ち合わせの時間を間違えたり、日にちを間違えたりする。がっくりする元やり手のキャリアウーマンの彼女を、私も、この時とばかりに慰める。

 「定年になったばかりで、生活スタイルが変わったせいよ。大丈夫。じきになれるわよ」

 同世代は、いい。お互いがお互いに寛容になれる。人生の下り坂をともに下って、ゆっくり生きていきましょうという感じで、一緒にいると妙に安心するのだ。

 おまけに、時代の記憶を共有しているというのもありがたい。未来に、だんだん興味を失ってくるので、あの時、こうだったよね、ああだったよね、と言う相手がいないと、寂しすぎてしまう。

 と言ったら、結婚三十数年のとある妻が言った。

 「それよ。その共有する記憶。それが、いずれかけがえがなくなる日が来ると思ったわけよ」と。つまり、それが熟年離婚を思いとどまった理由ということなのだけれど、冗談のきつい同世代が水をさした。

 「でも、それもつかの間なのよ。お互い、あれ、あなたはどなたでしたっけ、と言い合う日がくるんだから」だって。

 ともあれ、そろそろはじまった記憶力の減退にどう対処するかが、今後の私の大きな課題である。(ノンフィクション作家 久田恵)

(2008/12/05)