産経新聞社

ゆうゆうLife

(100)妻でも母でもない女として

 年が新しくなった。

 気持ちをリセットして、強く生きなくちゃあ、と思った今年の私である。

 なにやら、荒野の中にひとり、すっくと立って、茫漠とした日々に向かって一歩踏み出そうとしているイメージ。その時、ふと、口をついて出たのは、やっぱり母の短歌だった。

 「悔やむまじたとえ冬野にわれひとり 風が枯れ木の枝鳴らすとも」

 傍らに夫もいて、子供もいた母なのに、こんなふうに、ふと覚悟をしてみたくなるときがあったのか、と思う。だったら、私もそう覚悟いたしまするゾ、という感じだろうか。

 最近、母の短歌集を枕元に置いていて、なにかにつけ開いてみることが増えた。

 それは、母の結婚したての20歳代から60歳代まで、彼女の人生のステージごとに娘の私がいいな、と思った短歌を勝手に選んで編んだ作品集だ。

 そう、いくつになっても親を喪ってしまうと妙に心細くなる。そんな時、母の短歌は、どの世代の時のものを読んでも、励まされる。彼女もこのような思いに浸ったことがあったのだとか、このような寂しさに耐えたことがあったのかと思うと、だったら娘の私だって、という心境になるのだ。

 時折、こんな短歌に胸がつかれ、考え込んでしまったりもする。

 「装わぬわが貌ありてさりげなく この抽斗(ひきだし)に鍵かけておく」

 妻でも母でもない1人の女として母を見たことがなかった私だ。すでに大人だったのだから、親子の関係を超えた女同士として、もっと語り合うことがなぜできなかったのだろう、と悔やまれる。

 「遠ざかるもの今さらに追ふなかれ わが行く道の春の逃げ水」

 こんな短歌を読むと、母が、今さら追うまい、それはつかむことのできない幻だ、と自分に言い聞かせたものってなんだったのだろう、と思う。子供? 夢? ひょっとして恋人? と、粛然とした気持ちになったりもする。

 先日読んだ本に、他者を理解するには人生は短すぎる、というフレーズがあったけれど、親とか子とか夫とか、身近にいる他者であればあるほど、分かったつもりのままでいて、分かろうとする努力をしないのかもしれない。

 母の遺(のこ)した短歌を手にとりたくなる度に、そうかあ、親を理解したいという子の思いは、親を喪って初めて生じるものなのか、と思うことしきりである。(ノンフィクション作家 久田恵)

(2009/01/09)