産経新聞社

ゆうゆうLife

(102)明日のことは…

 最近、心身の脱力状態が続いている。

 この力の抜けた感じも悪くはないのだけれど、鏡を見て、あまりに自分がキョトンとした緊張のない顔をしているのにあきれてしまう。

 思えば、長い介護時代に、過去は引きずらない、明日のことを思いわずらわない、今日のことだけ考えて生きていかなくちゃ、とせっせ、せっせと自分に言い聞かせてきたので、性格が変容してしまったのかもしれない。

 いや、父とあんまり長く一緒に暮らしたせいで、彼の性格が乗り移ってしまったのかもしれない。

 父は、いつもミもフタもない口調で言っていたのである。「お前な、過ぎたことは過ぎたことだ。あれこれ言うのは無駄だ」と。  

 「お前な、明日なんてどうなるか分からないんだ、その時になったら考えればいい」と。

 昨日をひきずらず、明日を憂えず、まずは、今日のやるべきことをちゃんとやれ、ということなのだけれど、このごろは、今日のやるべきこともそうはない。

 自分以外の誰かのケアに、エネルギーの大半を費やしてきた日々から、自分のことだけをケアしていればいい生活になると、女は楽過ぎて、戸惑ってしまう。

 この厳しい時代に、楽過ぎるなどとは、はなはだ不謹慎で申し訳ない。ならば、仕事をもっと頑張るとか、誰かの面倒を見てあげるとかすればいいのだけれど、その気力はない。

 「そ、そ、そういうのはもうたくさんです」という燃え尽き症候群みたいな状態なのだ。

 そもそもこの年齢になると、おせっかいは禁物だし、期待もされていないようだし。

 で、最近は、電話が鳴っても、ま、いいか、でやり過ごす。玄関のチャイムが鳴っても、ま、いいか、でやり過ごす。というようなことを言ったら、

 「それって、力が抜けているんじゃなくて、ウツの前兆じゃないの?」と心配されてしまった。

 人生の気力を支えているのは、困難と葛藤(かっとう)。実は、それこそが人の生きる活力の源で、ウツは葛藤がなくなってやっとなれるもので、人生が孤軍奮闘で大変な時は、人はウツにだってなれないものなのよ、というのが彼女の説なのだけれど、それって、本当のことだろうか。

 でも、ウツになったら、どうしようと明日のことを心配できない性格の私は、ただ脱力したままで浮遊している。(ノンフィクション作家)

(2009/01/23)