「家族に、本当はそう思っていないようなことを言っちゃって、自己嫌悪に陥ることってなかった?」
悩める知人に、そう聞かれて、考えもせずに答えてしまった。
「それって、実は、あなたが本当に思っていることだったりして」なあんて。
でも、後で、よくよく思いだしてみれば、彼女の言う通り。本当はそうは思っていないようなことを、日々、私も言い散らして暮らしていたなあ、と。
どうも、1人暮らしになると、たちまち家族と暮らしていた混沌(こんとん)の日々の記憶が薄れ、その関係の実感が遠のいてしまう。
私の場合、けんかをしたときなどは言い負かすことに必死で、本当に思っていることよりも、相手が言われたら一番傷つくであろうことをあえて選択して言い放ったりしていたように思う。
また、その場をとりつくろうため、親の権威を示すため、はたまた一瞬の不機嫌のせいで、正反対のことを言うことも多々あった。
とくに夫婦とか、親子とか、家族には、他人じゃない、という甘えや思い込みがあるから「これは本当に私が思っていることかしら」などと吟味なしに、言い散らしがちだ(というのは、わが家だけの特殊事情だったかしら?)。
そういえば、ある時期、言いっ放しの母親かつ娘としての自分のありように、すこぶる反省して、ふるまいを改めたことがある。
要するに、「あの時、ああ言ったけれど、本当の気持ちはね…」と弁明を試みたのだ。
父に言われた。
「お前が言うことなど、いちいち気にしとらん。覚えとらん」
息子に言われた。
「ボク、おかあさんの言うことは聞いていないから」
うちの家族には言葉が通じない! とよく嘆いていたけれど、今思えば、そもそも家族とは、言葉ではないものでコミュニケートしている関係だったのだと思う。
いうなれば、その場の空気感である。時にのどか、時にとげとげ、時にふんわり、時にしらじら、時にまったり。そこに飛び交う言葉など、さして重要ではないという関係。もう一度、あれをやりたいか?と問われたら、いや、もう卒業しましたから、と遠慮したい気分だけれど、あそこに漂っていた微妙に変化するあの空気感が、時折懐かしくてたまらなくなる。
あれが欲しくって、苦難を承知で、面倒を承知で、みな家族を求めるのだろう。悩める知人に、自己嫌悪なんて無用よ、と言ってあげればよかったと思う。(ノンフィクション作家)
(2009/02/06)