産経新聞社

ゆうゆうLife

(109)「なじりの嵐」の関係

 娘も息子も結婚して、とうとう夫婦ふたりきり。「このごろは、毎晩、夫と晩酌しているわよ、私」と知人が言う。

 そうか、ふたりでしみじみか…、と「黄昏(たそがれ)の夫婦」のいい感じのイメージをかきたてられていたら、さにあらず、だった。  

 彼女は、夫を前にして飲んでいると、あの時のこと、この時のことが、胸にふつふつとこみあげてきて、腹が立ってしようがなくなるそうな。

 これまでの結婚生活で、我慢してきたこと、望んでいたのにかなわなかったこと、もう洗いざらい吐き出さずにはいられなくなるらしい。しかも、話が細かい。

 「あの時、あなた、お義母さんの前で、こいつの言うことは聞かなくていいからって言ったでしょう。こいつって言ったのよ。親戚(しんせき)の前に行くと、威張っちゃって、私のことをばかにして」みたいな。

 で、夫はどうしているかと言うと、この嵐のようなひと時に、びっくりしているらしい。

 基本は、そんなことあったかあ?と忘れたふり。いや、全然、覚えていない様子だったりもするけれど、反論はなし。と言うよりは反論不能な状況にあるのだ。

 そして、あんまり、彼女がしつこいと、申し訳なかったとか、悪かった、とか言うそうだ。けれど、それがまた、実がなくて、その場しのぎで無性に腹がたつのだとか。

 いいなあ、と思う。

 飲んで、とことんからめる相手がいるなんて、もう、最高じゃないか、と思う。

 要するに、彼女は夫に甘えている。優しさにつけこんでいる。自分が怒鳴り返されたり、殴られたりしないという信頼と安心があるからこそ、相手をそこまでなじることができるわけだから。

 と言うと、そういう甘い話じゃなくてえ、と彼女は主張する。

 かつての夫には、なにか言ってキレられたら怖いとか、機嫌をそこねられたら面倒とかがあって、自分はずっと言いたいこと言わずにきたのよ、だから、今はその反動なのよ、と。

 そうかもしれない。が、やっぱりいいな、と思う。

 60歳を過ぎて、心おきなくからんで、なじれる相手がいるなんて、これまで我慢したかいがあるってもんじゃないの、と。そう言ったら、彼女も、ついにそうかも、と感慨深げだった。

 定年後の夫婦関係のリセットのためには、どの夫も、この妻の嵐のような「あの時、あなたはっ!」のなじりの嵐をくぐらねばならないらしい。

(ノンフィクション作家 久田恵)

(2009/03/09)