悩みってあります? とよく聞かれる。
自慢じゃないが、気分の乱気流には常に襲われていて、年中、浮いたり沈んだり、と忙しくしているけれど、どうも、これまで深刻に悩んだ、という経験は少ない。
私の人生が平穏だった、というわけではない。困難がなかった、というわけでもない。
ふり返れば、いろいろである。離婚しているし、極貧の時期もあるし、失業もあるし、両親の介護が大変だったし、病気にもなったし、息子が不登校だったりなんてこともあったし…。
もしかしたら、いろいろありすぎて、悩んでいる暇がなかった、といえるのかもしれない。
そもそも人の悩みって、どこから生じるのだろう、と悩める人の話をしみじみ聞いていて、ある時、はたと気が付いた。
悩みって、多くの場合、「誰かが自分を幸せにしてくれるはずだ」という、根拠のない願望によって生じるのではないか、と。
たとえば、こんな子に育てた覚えがない、という期待に反した子供への失望とか、あの時、シアワセにすると言ったくせにどうよ、この現実は!という夫への怒りとか。
先日もある60歳の妻からの悲鳴のような手紙をもらった。
手紙の冒頭にこうあった。
「私の人生はなんだったのか、と思うと、もう目の前が真っ暗で涙が止まりません」
実は、夫が浮気をしたのである。
「夫婦なんてこんなものかと思って、平凡に暮らしてきたのに、60歳にもなって夫からこんな目にあうなんて」と彼女の嘆きはとめどもないのである。
でもなあ、と思う。
あなたも、ちと人生というものをなめていたのではないのかなあ、と思う。
だってねえ、「夫婦なんてこんなもの」と妻からずっと思われていた夫の人生ってなに? と思うし、夫の浮気ひとつで、これまでの人生が真っ暗になってしまうあなた自身の人生ってなに? と思うし。
夫も他人。子供も他人。結局、他者に依存した人生のシアワセは、もろいのよねえ、ということかしら。夫の浮気ぐらいで、私の人生なんだったの、と嘆かなくていい固有の人生というものを自分でつくっていかなければならないわけで、それに気づくのが遅すぎることはないのだと思う。
いろいろつらいことがあっても、私の人生なんだったの、とだけは言いたくない。
(ノンフィクション作家 久田恵)
(2009/03/16)