産経新聞社

ゆうゆうLife

(115)隣の芝生は青く見える

 春の風に誘われ、ふらりと旅に出た。むろん、1人で平日に。これって二十数年も介護と子育てにつかまっていた私の一番したかったことよねえ、と思いつつ。

 でも、ショック! 中高年の女の一人旅はぜんぜん見かけない。いずれも定年後らしき熟年夫婦ばかりだった。

 そんなわけで、ついつい彼らを眺めてしまって、そして、あらためて実感した。夫婦って、他に類のないなんと、なんと、特別な関係なのだろうと。

 たとえば、電車の中で見かけた夫婦は、どんな事情か妻が怒っていて、一方的に夫に言い募っていた。その物言いのきついこと、きついこと。「だから言ったでしょっ、あなたって、いっつもそうなんだから」と、とてつもなく攻撃的で、こちらが怖くなるほど。

 にもかかわらず、夫は無言。どこ吹く風なのだった。

 理由はどうであれ、あんなひどい言い方を他人にしたら、危険だ。相手は1分でキレる。普通の人間関係ではあり得ない。

 しかも、この2人、電車が止まったら「ほら、行くぞ」などと夫が妙に威張った口調で言ったのに、怒っているはずの妻がいそいそと付き従い、2人の旅は、問題なく続いていく様子なのだった。

 すごい、と思った。

「あんたさあ、バッカじゃないのっ!」などと、あんなふうに大の大人の男をためらいもなくののしることができる体験は、私の人生にはついぞなかった、と思ったら、なんだか涙ぐみそうになった。

 さらに、宿泊したホテルのレストランでのこと。向かい合って食事をしている夫婦が、まったく会話を交わさない。でも、けんかをしているふうでもなく、淡々と食事に専念しているのだった。

 私も老いた父とよく旅に出たが、黙って食事はできなかった。あれこれ話題を振り、話を聞き、結構、気をつかって疲れた。

 なるほど、夫婦って腹が立ったとき、妻がためらわずに夫をののしれる、また一言もしゃべらないでいても一緒に食事のできる、そういう関係なのか? これが長年暮らした夫婦なればこそ得られるものなら、悪くないじゃないの、と思った。

 旅を終えて、それを知人に伝えたら、「言ってる意味が分からない。だから夫婦で、旅に行ってもつまんないんじゃないの」と言われた。

 やっぱり、得ているものには分からず、得てないからこそ分かることってある。いや、ただの「隣の芝生は青く見える」類(たぐい)のことなのかもしれないけれど。

(ノンフィクション作家 久田恵)

(2009/04/27)