産経新聞社

ゆうゆうLife

(128)「遺す技術」磨けばいい

 家が片付けられない。

 いつまでたっても。

 おかげで、母が去り、父が去り、息子が結婚して去ったわが家は、彼らが置いていった物たちであふれたまま。その中で、私はまるで下宿人のよう。自分の部屋に自分のものをすべて置いて、ひとり、窮屈に暮らしている。

 ものを捨ててしまえば、部屋が空く。ここは私の仕事部屋、ここは私のリビング、ここは私の寝室と、私づくしの家になる。

 にもかかわらず、十数年前に息子にあげた整理ダンスを「もう、捨てる」と言われたら、「ダメ」と言って引き取ってしまったり、それを自分の部屋に置いてしまったり、どうも、やっていることが、チグハグしている。

 思えば、そのタンスは、息子が生まれたとき、母がくれた四十数年も前のもの。高級なものではない。傷だらけで、クレヨンで書いたいたずら書きがあり、たぶん、捨てた方がすっきりする。 

 ところが、この間、そのいたずら書きが、今流行の重曹お掃除をしていて、消えそうになったら、慌てふためいてしまった。

 こんな私をどうしようと、苦笑するしかない。

 これまで、思いきりがいい人と言われてきたのだけれど、年のせいか、思い出の染みた過去のものたちへの愛着、未練が募り、気持ちがぐずぐずになるのだ。

 今や「捨てる技術」などと聞くと、まゆをひそめそうになる。このままでは、将来、ゴミおばさんになることが必至だ。将来が怖いなあ、と悩んでいて、ふと、気がついた。

 そうだ、「捨てる技術」ではなく、「遺(のこ)す技術」を磨けばいい!

 そんなわけで、自分にとって「捨てられないものは捨てない」と、決めてしまった。不思議、不思議、そうしたら、おのずと「捨てていいもの」がくっきりしてきたのだ。

 かくして、とうとう、私は家の片付けに着手することになった。

 むろん、一度にやったら疲労困憊(こんぱい)するので、毎日、30分ずつ。

 ものを片付けながら、あの時のこと、この時のことを思い、母や父や幼かった息子や若かった自分と、思い出という記憶の回路を通って出会い直したりしている。

 なんか、こういう時間も1人暮らしになった自分への贈り物のようにさえ感じられて、楽しい。

 要するに、家の片付けで肝心なのは、「捨てる」ものではなく「捨てない」ものを決めることだったのね、ということで納得した私だった。(ノンフィクション作家 久田恵)

(2009/07/30)