新タマネギが出回る季節だ。みそ汁が甘くなるのが苦手で作ったことがなかったが、この春、初めて新タマネギのみそ汁を作った。ある男性のエピソードが、心から離れなかったからだ。
昨年、終末期の在宅医療の連載で、静岡県の女性に話を聞いた。女性は昨年のちょうど今ごろ、59歳の息子をがんのため自宅で看取(みと)った。もう、飲み込めず、胃へのチューブで栄養を取る。しかし、味や香りの感覚は残る息子に、女性は出回り始めた新タマネギでみそ汁を作り、つゆを口に含ませた。彼女が「汁の実は何だと思う?」と聞くと、息子は「新タマネギ」と答え、味わう楽しみを生きる希望にしたという。
死を間近にした床での新タマネギが、香り立つ気がした。日ごとに失われる機能を前に、女性は息子の残された感覚に働きかけて、最期の日々を楽しませてやりたかったのだろう。
口から食べられなくなっても、「五感で味わう楽しみ」は残る。それをこのとき、私はありありと感じ、自宅で最期を過ごす幸せを思った。
ゆうゆう面ではエピソードに多くのスペースを割いている。実例があれば、「分からない」「難しい」と不評の社会保障も、実感として分かって頂けるのでは、と思うからだ。体験した人を探すのは大変だが、届いた手紙をひっくり返し、人脈を駆使して「こんな人、知らない?」と聞いて回る。
それでも、実例にこだわるのは、たどり着いたとき、やっぱり体験者にしか言えない一言があるからだ。その言葉にまさる説得力はない。新聞の原点だと思う。
自宅で最期の日々を過ごした息子さんに、母親の作った新タマネギのみそ汁は浅い春を運んだろう。そう思いをはせつつ、私もみそ汁を味わったのだった。
(ゆうゆうLife編集長 佐藤好美)
(2007/04/06)