「私の内閣は、まじめにコツコツ(保険料を)払ってきた人が、年金を受け取れないような理不尽なことは決していたしません」
年金記録が山のように宙に浮いたり、失われたりしている問題で、安倍晋三首相はそう街頭演説をした。全面的に国民サイド、ひいては年金問題の“被害者”側に立った発言に、国会での発言とギャップを感じた。
保険料を「納めた」というのに、記録のない人に、政府は「領収書がなくても、他の資料で納付を証明できれば、第三者機関で受給権を認定する」方針を打ち出している。
「他の資料」って何だろう。納めたことを客観的に証明できないから、もめていたのではなかったか。それとも、資料のハードルを下げるのだろうか。
柳沢伯夫厚生労働相が国会で野党の質問に対して、「(納めた)証拠がないのに、(年金を)出すわけにはいかないじゃないですか」という趣旨の発言をしたのは、約10日前。これを聞いて、私は内心、「そうだよなあ、客観的な資料がなければ、年金は出せないだろうなあ」と思ったのだった。
「内心」なのは、データが見つからない人には心が痛み、社会保険庁に記録紛失の非があるのは間違いないからだ。だから、時間がかかっても、データを洗い出し、手書き台帳にも手を付ける姿勢がほしい。しかし、証拠がないのに、年金を出してはいけないんじゃないだろうか。
国際舞台では、できそうにないことも、できる姿勢を示す国や政治家は珍しくない。日本はしかし、できそうになければ、「します」と言わない国だった。それが、しばしば「アピール下手」と不評を買った。
それでも、やっぱり、できないことは「できません」と言えばいいのではないだろうか。
(ゆうゆうLife編集長 佐藤好美)
(2007/06/08)