□プロデューサー 高杉敬二さんに聞く
■闘病中も優しさ忘れず 「難病の人のために歌う」 思い今も世の中に貢献
急性骨髄性白血病で入院した本田美奈子.さんを、所属事務所のエグゼクティブ・プロデューサー、高杉敬二さんは1日も欠かさず訪ね、闘病生活を見守ってきました。これからも、本田さんの「思い」を伝えていくのだといいます。(中川真)
告知のショックで呆然(ぼうぜん)としてしまいました。美奈子は目にたっぷり涙をためていました。数日後のコンサートを気にして、「歌いたい。無理なら何としても会場に行き、お客さんにおわびしたい」と必死に頼んでいました。しかし、翌日は無菌室に入るというのが現実でした。
「美奈子、先生が厳しいことを言うのは、治るからだよ。『一緒に戦おう』と言ってくれているんだよ」と言いました。大事なのは本人が戦う姿勢を作ることです。抗がん剤の治療は壮絶で、地獄の戦いです。それでも、美奈子は「頑張ろう」と、言い続けていました。そして周囲に優しかった。
お母さんは毎日、埼玉県朝霞市から都心の病院に通っていましたが、強い雨の日、美奈子は「お母さんに絶対に来ないように言ってね。駅の階段が危ないんだから。私が言っても来ちゃうから、ボスから言ってね」と電話をしてきた。
私が本当に感激したのは、初めて抗がん剤を入れて、とても苦しかったはずの2月、無菌室に行くと、「ボス、誕生日おめでとう」とガラス越しに切り文字で飾ってくれたことです。
最も辛かったのは、お見舞いの帰りに忘れ物を取りに戻ったとき。美奈子は肩を振るわせてワンワン泣いていたんです。別れ際に「バーバーイ」って明るく振る舞っていたのに…。
私を見つけて「ばれてーら」なんて言ってました。私は「おれたちの前では泣きなさい。あなたの歌にも『悲しいときは泣きましょう』(ジュピター)って歌詞があるじゃない。そうすれば心が泣かずに済むから」と言いましたが、あの姿はずっと焼き付いています。
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抗がん剤は、回数を重ねるごとに、体力は落ちていくのに、多量で強力になります。私たちは結果に一喜一憂しました。3回目にはレーザー治療と移植ができるくらいになり、美奈子も涙を流して喜んでいました。
次は移植のドナー待ちです。適合する方が2人いましたが、先に順番を待っている方がおり、美奈子には回ってこなかった。それで臍(さい)帯血移植に切り替え、何とか成功しました。週1回の通院で済むようになり、7月31日の誕生日は自宅で迎えられました。失っていた味覚も戻り、「おしょうゆの味が分かるよ」って言っていました。
3週目、わずかにがん細胞が見つかり、渡辺謙さんや市川団十郎さんも使った新薬を投与。かなりよくなり、シュークリームをおいしそうに食べていた翌朝、急変してしまいました。
南野陽子さん、岸谷五朗くん、大親友のYU−KI(TRF)さんらが駆けつけてくれました。一時持ち直したものの、最後はずっとついていてくれた岩崎宏美さんが手を握って「美奈子ぉ」と呼びかけても、「ウーン」って感じで。11月6日、土曜の朝4時38分に、とうとう帰らぬ人になったんです。
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亡くなった後の注目ぶりをみると、「もっと早く、多くの人に美奈子をわかってほしかったな」と思います。でも、美奈子は「テレビに出ていれば売れっ子」という風潮にこだわらず、地道に全国コンサートを続け、1人ひとりのお客さんと握手して基盤を作りました。その力は大きい。今も、ファンクラブの会員が増えているほどです。
「もし、ドナーが間に合っていれば、美奈子は助かったかもしれない」。私たちは「LIVE FOR LIFE」を立ち上げました。フィルムコンサートや写真展などを開き、骨髄バンクに協力しています。
美奈子の入院中、隣のベッドに子どもがいました。「あんな小さな子が私と同じ病気で戦ってるんだよ。元気になったら、難病の人のために歌うことをライフワークにしたい」。この思いは生き続け、今も世の中に貢献していると思います。骨髄バンクのドナーは、1年間に3万5000人近く増え、約26万5000人になったんですから。
闘病中、美奈子は「風を感じられるのが幸せ」と言い、日々感じる幸せの積み重ねが、大きな幸せになると教えてくれました。子どもたちが目的を失い、人を殺したり、自殺したりする世の中。美奈子は「もう一度、生きている意味を考えて!」と思っているでしょう。私たちは、その思いを伝えていくつもりです。
(2006/12/08)