私にとっては、長い介護生活が終わって、脱力状態にある夏。この酷暑の夏に、久しぶりに電話を掛けてきた同世代の知人が何人もいる。それがいずれも、目下、介護中とのこと。
最近は、用件のやりとりはメールばかりで、電話などめったに誰からも掛からなくなっているというのに…、である。
しかも、その様子ときたら、おおむねこんなふう。受話器を取ったとたん、あいさつもそこそこに、いきなりの早口なのだ。
「今ね、嫌がる母をやっとの思いでトイレに誘導して座ってもらったところなんだけれど」
「大変ねえ」と、こちらはぼけた調子で応答するも、相手の切羽詰まった早口はおさまらない。
「ううん、大変とかそういうんじゃ全然ないんだけれど、言うことを聞いてくれないんで泣いちゃったわよ」
「誰が?」
「私が」
そうか、と思う。泣いちゃったんだなあ、と。さらに、そうか、ともまた思う。介護中、トイレに座ってもらっている5分間とか10分間のわずかな時間さえ待っていられず、今、ちょっと誰でもいい、人の声を聞いて落ち着きたい、というときに、介護経験のある同世代の私を思いだしたんだなあ、と。
そりゃあそう。60歳にもなって、親の介護が思うようにいかなくて、泣いちゃっている自分のことなど身近な誰に言えようか。
ある人は言う。
「この年になったら、どう介護されるか、ってすでに自分の問題じゃない? だから、子どもに愚痴は言えない。娘からは冷たく、おかあさんは、子育ては終わってるし、仕事してないし、介護ぐらい当たり前よって言われたし」
また、ある人は言う。
「介護しているのは自分の親だから、夫には遠慮があって、なんにも言えないのよ。むしろ、自分の親なんだからもっと優しくできないのか、なんて高みから言われてすごく傷ついてるわ」
そう、今や、誰もがやっている介護なのである。特別なことでもなんでもなく、なにか言えば、「私はもっと大変だったわよ」と言われかねない。
だから、みんな孤軍奮闘。介護中は、家族が他人に思え、周りの誰もが自分よりシアワセに見えてしまう時期なのだ。
そんな時に思いだされてしまう遠い知人の私、というのも複雑な気分だけれど、聞くほどに「あなたもそうか」と同世代への奇妙なる連帯感が募ってくるのである。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2008/08/22)