患者さんの思いや希望はさまざまである。特に、末期がん患者などは、その医師の資格、人格などはどうでもいい、とにかく治してほしいと思うだろう。
保険のきかない自由診療に対しての希望、国内では入手できない特効薬や、治療方法が海外にはあるとの考えもそこに基づくものだ。そもそも、他国で治療を受ける場合には他国の医師に治療を受けるわけで、日本の医師資格は不要だろう。
制度を作る側としても、技術信仰が著しくなれば、医師免許がなくても、技術がない医師は淘汰(とうた)されるので、それでいいといった極端な考え方が生まれかねない。
しかし、命はひとつしかない。うまくいかなかったからと、治療をやり直すわけにいかない。また、患者側には医療についての情報が正しいか否か、評価する能力がどうしても不足する。末期がんなどで治療を焦っていれば、判断を誤る可能性もさらに増すであろう。
こうしたことから、国家が責任を持つという意味で、医師免許が国家資格になっているのである。医師免許というのは単に技術のみを認定するのではなく、知識、倫理観を認定するといってもいい。医師国家資格を受ける医学部卒業生には、まだ手術などの訓練が行われていないことからも分かるだろう。
もちろん、試験のみで倫理観の有無を見られるのかという疑問はある。しかし、6年間の医学部教育で、前述した「ヒポクラテスの誓い」なども学び、患者さんへの接触などの経験を踏まえた職業意識が醸成され、それが倫理観につながっていく。
では、最後に残された技術はどう担保するのか。それが専門医の資格だ。すなわち、医師免許取得後、2年間の臨床研修を行い、基礎的な医療技術を身につけた研修医が、次なる修練の場として専門医資格を目標にするのである。
専門医資格は、国家資格ではない。専門医の集団である民間の団体が認定する。そのため、多くの専門医資格が乱立するおそれがある。
また、専門医が技術を中心に認定するものである以上、外科系の専門医では特に、実技の評価が欠くことができないものになっていくであろう。(医学博士 真野俊樹)
(2006/10/26)