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生きる意味、落語で訴える(下)

 □「いのちの独演会」続ける樋口強さん

 ■変わる「大事なもの」/最高の人生のため手放す勇気学んだ

 「笑いは最高の抗がん剤」。悪性の肺小細胞がんを克服し、落語を演じる喜びを再発見した樋口強さんは、創作落語「病院日記」でがんの仲間たちに共感の輪を広げていきます。しかし、後遺症のしびれを抱えての会社生活はあまりに厳しく、平成16年に退職を決断しました。樋口さんは授かった「2つ目の命」を生かすために、築き上げた「仕事」という大事なものを「手放す勇気」を学んだといいます。(聞き手中川真)

 私は関西の出身で、子供のころから親に連れられて寄席に通っていました。お笑いの魅力にとりつかれ、大学で落語研究会、就職後も「全日本社会人落語協会」という団体に所属し、選手権大会で優勝もしました。ところが、仕事に追われるようになると、おけいこの時間がなくなる。「中途半端な噺(はなし)を高座にかけたくない」と、徐々に落語から遠ざかってしまいました。

 がんで入院中、何となく聴きたくなって、自分が優勝したときや、古今亭志ん生師匠のテープを聴きました。以前は話術を研究しようと、脇を固めて聴いた噺なのに、実におかしい。「落語っていいな」と思いました。「完成度を高めよう」では、まるで仕事と同じじゃないですか。「自分自身でも楽しめる落語を演(や)りたい」という気持ちが芽生え出しました。

                  ◇

 しかし、退院後も大変でした。食器洗い、洗濯物の折りたたみ、風呂の掃除…。女房が心を鬼にして考えてくれた家事に役立つリハビリは過酷でした。1年後、やっと職場復帰しても、頭に浮かぶのは「再発」の2文字。小細胞がんは転移すると、かなり厳しいんです。ただし、術後5年もてば再発の心配はほぼなくなります。

 5年が無事に経過し、「記念に何かしたい」と思いました。女房が「それなら、お世話になった方々を招いて、落語会で笑ってもらったら?」と言ってくれ、「お江戸上野広小路亭」という寄席で「いのちに感謝の独演会」を開催しました。

 演じたのは古典落語でしたが、マクラで入院生活を面白おかしく話したら、「あれよかったね」と好評だったんですよ。最初で最後のつもりだったんですが、このマクラを「病院日記」という自作の噺に仕立て、翌年から毎年1回、東京・深川の「深川江戸資料館」の小劇場に場所を移し、独演会を続けています。

 ほかの落語会と違うのは、涙と笑いが一緒になっていること。「病院日記」を通じてつらかったこと、頑張ったことを共有し、「自分の命」を確認できる。みんな同じ気持ちだから、自然と目頭が熱くなる。高座からもハンカチを取り出しているのが分かります。

 仮に、お医者さんが同じ話をしたとしても、自分で抗がん剤を入れたことがないから、あのつらさは分からない。私だから共感していただける。仲間の強さですね。

 独演会は「ご招待」です。自分が楽しく、元気になれますから。ゲストの柳家喜多八師匠も社会人落語の仲間、スタッフも手弁当です。ただ、お客さんは私が選ばしてもらっています。がんの仲間と家族だけです。申し込みの際に病名、病状などを申告していただき、私が「通行証」をお送りしているんです。

 今月17日に終えた今年の独演会は、ちょうど台風にぶつかり、九州から1日早く上京された方もいました。帰りも台風の影響で足止めを食ったそうですが、そんな苦労をしても、自分で独演会に行くと決め、実行することが大事なんです。それが、生き方を自分で決めることにつながります。私はその気持ちを後押しするだけです。だから、強制もしないし、「木戸銭」というお金の契約もなしにしたんです。

                  ◇

 私の生き方にも変化がでてきました。一番大切なものをつかむには、何かを手放すことも必要だ。止まらぬしびれに耐え、これ以上、会社生活が続けられるか? 私は自宅の猫に多くのことを学びました。「猫またぎ」といいますが、うちの猫も嫌いなご飯はまたいで、好きなご飯が出るまで食べません。それでいいと思います。

 私にとって最高の人生は、家族と過ごす普通の暮らしです。がんを経て授かった「2つ目の命」によってそれを維持するには、ずっと全力で打ち込み、復帰のために苦しいリハビリにも耐えた会社生活だけど、辞めることも勇気なんだと。時を経ると「大事なもの」も変わっていくんですね。

 こうした思いを込め、「いのちの落語」(文芸春秋)に続いて最近出した講演集に、「つかむ勇気 手放す勇気」(春陽堂)というタイトルをつけたんです。

 退職後も執筆や講演などで忙しい生活ですが、独演会も今年で6回目。全国から500人以上の方が来てくれました。

 会の中で私が最も大事にしているのはお開きの手締めです。「来年また会いましょう」と、お互いの『命』にエールを送り合うんですが、今回は初めて「前後左右の席の方と握手してください」と呼びかけました。

 知らない同士が旧知の友人のように、ずっと手を離そうとしない。それがとてもうれしく、「この会を続けていきたい」と改めて痛感しました。

(2006/09/29)

 
 
 
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