□バリトン歌手、原口隆一さん(65)
■「もう一度舞台に…」 長い闘病生活支えた家族の愛と固い意志
声楽家として順風満帆だった平成5年。助教授としても熱心な指導に明け暮れていた原口隆一さんは、脳梗塞(こうそく)に襲われました。幸い、一命をとりとめたものの、言葉が出てこない「失語症」が残りました。当時52歳。歌も歌えず、「死にたい」と1度は弱音も…。そんな原口さんを支えたのは、家族の見守りと、「音楽だけは捨てられない」という、執念にも近い、強い意志でした。(聞き手 柳原一哉)
脳梗塞というのは突如、やってきます。私の場合もそうでした。
リサイタルを間近に控えた平成5年9月の休日。私は昼食後、おそらく気分が悪かったのだろうと思いますが、ベッドに横たわりました。
実はそこから先の記憶がないのです。帰ってきた妻の麗子(68)と長女の晶子(46)がうめき声しか出さない私の様子に異変を感じて、緊急入院させました。妻は「大病だとはとても思わなかった」と振り返っています。
うめき声で「もう死ぬのかな」と言ったそうで、思えばこれが失語症になる前の最後の言葉でした。
ついた病名は「解離性動脈瘤(りゅう)による脳梗塞」。幸い一命をとりとめました。手足が動かしづらいなどの問題はあったものの、1カ月もしないうちに退院できました。
しかし、梗塞を起こした部位が左脳側頭葉の言語領域にかかり、失語症と診断されました。声は出るが、意味のある言葉が出ないんです。
のどがかわいても「水がほしい」といえない。しばらくしたら出てくるだろう、ある朝起きたら元通りになるだろうと、思っていたのは、後から思えば楽観的すぎました。
たとえば、テレビで幼児が「おはよう」と言っているのを聞き、まねしようとすると、言葉にならない。試しに「あいうえお」と発音しようとすると、最初の「あ」しか出てこない。
出てくる言葉もありました。そんな言葉は流ちょうで、どもったりせず、発音自体はとてもきれいだったと妻も医師も言いました。しかし、それ以外は家族との会話も筆談にせざるを得ず、くずかごはメモ用紙のゴミでいっぱいになりました。そんな状態ですから2年は仕事に戻れないだろうと覚悟しました。
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それから失語症との闘いが始まりました。
梗塞を起こした、言語領域にかかる部分に代わる別の部分を使って、一から言葉を覚える作業が始まりました。天才といわれるアインシュタインでも、脳の3%程度しか使っておらず、大部分は未使用だったといわれています。だから、私も脳の別の部分で言葉を1から覚えられると、自分を励ましました。
「おはよう」が言えず、練習すると「おは」まで言えるようになった。でも「よ」が覚えられず「おは」しか言えない。ですから、最初はまず五十音の記憶からです。
カードもやりました。イヌや大根などの絵が描かれているカードを用意し、その名前を発音するのです。教材は幼児、小学生用の練習帳やドリル。徹夜で覚えようとした日もありました。
ところが、なかなか覚えられません。ちゃんと記憶したはずなのに、後から家族にテストしてもらうと、もう思いだせない。当然、本や新聞は読めず、テレビも分からない。ピアノは弾けないし、歌も歌えない。思いだせる歌は1曲もありませんでした。
こんなことでは仕事はおろか、普通の生活さえできない。挫折感でいっぱいでした。妻に「一緒に死んでくれないか」と言ったのは、そんな絶望のふちにある発病4カ月後のころのことでした。
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ただ音楽を捨てるわけにいきませんでした。
私がまだ実家のある奄美大島にいたころ、父は経営する会社を私に継がせたいと考えていました。しかし、音楽の道を歩みたかった私は聞き入れず、反対を押し切って武蔵野音大に進学。そして、今の私があります。
もう一度、リサイタルの舞台に立ちたい−。その執念が、失った言葉をひとつひとつ取り戻したい気持ちにつながりました。
しかし、リサイタルの舞台に立つまでは険しく、なかなか一筋縄ではいきませんでした。
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【プロフィル】原口隆一
はらぐち・りゅういち 昭和15年10月20日生まれ、65歳。鹿児島県・奄美大島出身。東京都清瀬市在住。武蔵野音楽大学声楽科卒業後、オーストリア政府給費生として国立ウィーンアカデミー音楽院に留学し、卒業。母校で助教授として教鞭(べん)を執った。バリトン歌手として独唱会も開催する。現在は同大講師。
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【用語解説】失語症
脳梗塞(こうそく)や脳腫瘍などにより、脳の言語中枢が損われることで起きる。言語の表現や理解能力を失ない、「話す」「聞く」「読む」「書く」という基本的な言葉の操作が困難になる。書かれた言葉の意味が理解できない、ものの正しい名前が思い出せないなども含まれる。名前が時々出ないというものから、うなり声しか出ないものまで、程度差がある。
(2006/10/19)