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失語症乗り越えて(下) 

 □バリトン歌手・原口隆一さん(66)

 ■努力次第で回復可能 「あきらめず焦らず」 念願の音楽活動再開

 再度、リサイタルの舞台に立ちたい。学生に指導したい。そうした情熱が、失語症と向きあう意欲をかき立てたと、原口さんは話します。その「執念」は職場復帰、その後のリサイタル開催につながりました。発症から13年。舞台の成功で音楽的には復活しましたが、失語症はまだ完全には治りきっていません。「あきらめず焦らず」を合言葉に闘病が続きます。(聞き手 柳原一哉)

 「死にたい」と一度は口にした私ですが、再びステージに立ちたいという思いで、言葉を取り戻す努力をする日々が続きました。「冬来たりなば、春遠からじ」とは名言だと思いました。

 しかし簡単にはいきません。覚えては忘れ、覚えては忘れ…。そんなとき、「ばかやろう」と怒鳴れればいいですが、「わー」という叫びしか出なかった。言葉にならなかった。ピアノ教則本を前に一から練習を始めましたが、うまくいかないから腹が立って鍵盤をバンバンたたいて壊したこともありました。

 自力の訓練も、頭がすぐに疲れてしまうので長時間はできず、もどかしい思いをしました。言葉という、当たり前のようにできていたことができなくなったつらさでした。

 同じ病の人では、思い通りに言葉が出ず、コミュニケーションがうまくとれないため、うつ状態になる人が少なからずいるといいます。それも心からうなずけます。

 ただ私の失語症は年を追って徐々に回復しています。同じ病の人に、希望を持ってと言いたいですね。

                  ◆◇◆

 発病から半年後。大学の上司が訪ねてきて「うまくできなくていいから、新学期から学校に来てほしい」と復職を促されました。

 音楽の才能を埋没させてはいけないと考えていただいたらしいのですが、私自身は不安でした。失語症もいくぶん回復はしていましたが、たどたどしい話し方でした。通勤も不安が残りました。

 ただ、学生を前に1曲全部歌えなくても、フレーズのみ手本を見せることはできました。

 見た目は回復しているようなのに、自由に話せない。周囲は「よくなったね」と言ってくれますが、実際はそうではない。雑談についていけないから同僚のいる部屋は居心地が悪く、最初の3年くらいは一人で昼食をとっていました。

                  ◆◇◆

 しかし、仕事に戻ったことが回復を早めたのではないかと思います。毎年、毎年よくなっていきました。そうして平成12年にようやく念願のリサイタル開催にこぎつけました。

 失語症は完全に治っていないが、音楽的には問題はなくなっていました。というのは、会話は言葉のやりとりなので、その場で言葉を考えないといけない。これが難しいんです。でも、歌う場合は歌詞、つまり準備した原稿を覚える要領と同じ。音楽の勘も個人的なレッスンを受けて何とか取り戻せるようになっていきました。

 しかし、リサイタル開催までは、準備開始から2年もかかりました。「再び舞台に」と決心したところから数えると、7年もたっていました。

 念願だったリサイタルはシューベルトの『白鳥の歌』をはじめ14曲。えんび服に袖を通すと、自然と口に歌詞がのぼり、歌いきることができました。

 残念なことがありました。このリサイタル開催前の11年、妻が脳梗塞(こうそく)になったのです。妻が「学校へ行く時間よ」というので確かめると2時間も早い。そう告げると妻は時計が読めませんでした。とっさに脳梗塞だと気づきました。

 すぐに、病院にかかったため大事には至らず、大きな後遺症も残りませんでした。リサイタル準備で妻も忙しかったのが原因だったのでは、と心配しました。

 リサイタルはそれから毎年のように開いています。来年早々にも6回目の開催を予定しています。

 発症から13年。まだ失語症は完全には治っていません。たとえば、つい最近まで電話の応対ができませんでした。相手の顔が見えないので、分かりづらいんです。先だって、ようやく一人で電話に出られたときは嬉しくて…。家族にも喜んでもらい、みんなで乾杯したほどですよ。今はチェロにも挑戦しています。

 この病は回復に時間がかかります。しかしリハビリを続け、努力すれば回復する。私の場合、それを支えてきたのは音楽でした。まだまだ闘病は続きますが、あきらめません。

(2006/10/20)

 
 
 
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