□大学教授・作家 荻野アンナさん(50)
■“大黒柱は自分”の重圧 日本語できない父の看病 仕事との両立にも苦悩
芥川賞作家で大学教授の荻野アンナさん(50)は一人っ子。20代後半から、両親の健康は常に心配の種でした。特に、米国人の父親はまったく日本語を話せません。健康を害すると、これが大問題になるといいます。一人娘は、一家の“大黒柱”。両親の介護を担うと、どうなるのか。荻野さんの経験は、多くの一人っ子が近い将来、直面する問題といえそうです。(聞き手 永栄朋子)
92歳になる父はフランス系のアメリカ人です。日本在住半世紀以上ですが、日本語がまったく話せない。これが大問題でして。
父は70代以降、腸の悪性リンパ腫などで緊急手術を3度受けましたが、手術って同意書へのサインが必要でしょう。病状を説明するにも、私も日本生まれの日本育ちで、医学の専門英語はわかりません。入院のたびに父の元に辞書を持って通わざるを得ないんです。
英語の話せるお医者さまは探せても、普段お世話になる看護師さんは、忙しい中で、なかなか英語の要求にまで対応しきれません。
父に読書の楽しみがあったころは、まだよかったのですが、白内障で本が読めなくなると、入院先でぐずるようになりましてね。そのたびに「娘さん、来てください」と呼び出されてしまうんです。
83歳になる母も、右肩を骨折したり、脊椎(せきつい)すべり症で腰の骨がずれているから、家の中を歩くのもやっと。ここ10年ほどは両親が交互に体調を崩し、住まいのある横浜市のありとあらゆる病院に通い、病院評論家の名刺を作ろうかと思ったほど。一時期は病院の建物を見るだけで気分が悪くなりました。
そんな中で私自身は昨夏、長く付き合った彼を、1年2カ月の看病の末に食道がんで亡くしました。彼は最初から「半年の命」と言われ、入退院を繰り返しました。
だんだんこちらも年齢が上がる中で、仕事、彼や両親の看病との間で無理がたたったのでしょうね。看病に行った先で私が倒れて、点滴を受ける始末。軽い鬱(うつ)になり、量は減りましたが、いまだに薬を飲んでいます。
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介護のつらさって、なんでしょうね。ウンチやおしっこは平気だし、体をふくのも平気です。私の場合は、それが毎日続くから大変というのではなく、生活全体の調整がうまくいかない、生活が破綻(はたん)してしまうといった恐怖感でしょうか。
わが家は私が働かないと成り立たないのですが、病院でも施設でも、何かあれば、一人娘の私が来るのが当然だと思っています。大事な仕事があろうが、おかまいなしです。
病院に行くと、付き添いの9割は女性です。きっと、大黒柱が男性なら、これほどまで「息子さん、来なさい」とはならないと思うんです。
私が来れば、病院や施設は安心かもしれない。でも、その安心感を得るのと引き換えに、もし私が仕事をクビになったら、わが家の生活は誰が面倒をみてくれるのでしょうか。
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彼を見送った後で、私の体力が戻るか戻らないかの昨年秋には、父がお酒の飲みすぎによる心不全で倒れました。
仕事を終え、携帯を確認すると、病院から留守電に「お父さんが騒いでいる」みたいなことがよく、吹き込んである。すっ飛んで帰るんですが、途中の駅で歩けなくなったことが、幾度となくあります。エネルギーが切れて、動けなくなっちゃうんです。
父が倒れてからは、親子心中も2度考えました。父が騒いで、リハビリ病院を「出ていってほしい」と言われたときは、家中の薬をかき集めて、駅の売店で缶チューハイとカッターを買って、チューハイを飲みながら病院に行きました。
日本語もできない父を世間さまに置いていくわけにはいきません。もう一緒に死ぬしかないと思った。
結局、病院で床を転げまわる大騒動をして、3、4人に取り押さえられ、力尽き、事なきを得ました。安定剤を飲んで、とぼとぼ来た道を帰りました。
後から「なんであんなに思いつめたんだろう」と思うのですが、「休んでいない」「眠っていない」となると、人間、変なことを考えちゃうんです。そのときのカッターは、今使ってますけど。「何もなくてよカッター」って。
こんな状態でしたが、父はなんとか前後に人が付けば歩けるようになって退院。自宅介護に入りました。最初から分かってはいましたが、父と母と私。3人のうち、誰が先に倒れるかは、時間の問題となりました。
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【プロフィル】荻野アンナ
おぎの・あんな 昭和31年、横浜市生まれ。慶応義塾大学仏文科教授、作家。平成3年「背負い水」(文芸春秋)で芥川賞受賞。介護をテーマにした「けなげ」(岩波書店)など、著書多数。フランス系アメリカ人の父と、画家の母の3人暮らし。
(2006/11/09)