■気がかりだった異変 あこがれの五輪出場 帰国後にがん判明
砲丸投げの故森千夏選手が、アテネ五輪の舞台に立ったのは2004年夏。日本選手として40年ぶりの出場という快挙でした。しかし、母親のかよ子さん(54)は五輪前から、娘の異変が気がかりでした。2年後、千夏さんは将来を期待されながら、虫垂がんに冒され、26歳の若さで他界します。現実になった懸念。かよ子さんは「あのとき、もっと早く病院に行かせていれば…。でも五輪をやめさせるなんてできなかった」と話します。
(聞き手 柳原一哉)
「水を飲んでも太る」といいますが、肥えやすい千夏がそうでした。肉類の好きな、よく食べる子で…。でも、女の子ですから、少しでもスリムにと、小学生から水泳を習わせました。大好きになり、水泳三昧(ざんまい)の日々で、思えばこのとき基礎体力を身につけたのでしょう。
区立中学校は水泳部がなかったので、足が速いこともあり陸上部に。砲丸投げを始め、伸びてきました。中学2年で全国大会に、3年で国体に出たのです。
練習は厳しかったようです。いつも運動靴の同じ部分に穴が空いていました。専用シューズをはかなかったためですが、親はそんなことも知らなかった。当時は五輪出場なんて思いもよりませんでしたね。
千夏は小さいころからよく動き回る子供でした。体も大きく、4つ年上のお兄ちゃんを引っ張り回すような子で。五輪選手って小さいころから英才教育をしますね。でも、うちでは何もしていません。好きなことをどんどんさせました。
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推薦で私立東京高校(東京都大田区)に進学。中学時代は「試合の応援には来ないで」と言ってましたが、高校生になると、「こういう角度でビデオを撮って」などとせがむんです。普通の女の子ですよ。
試合だと、必死の形相ですが、本当は気が優しくて、頼まれると嫌と言えない性格。人からうまく使われているんじゃないかと思うほどで、本当はさみしがり屋なんです。
国士舘大からスズキに入社。平成16年に18・22メートルという日本新記録を樹立しました。この年、一番いい成績が出せたのです。
アテネ五輪出場が決まったと聞いたときは、「すごい」と、心の中で叫びました。周囲と一緒に騒いじゃうと、親ばかのようでしょう。観戦もアテネには行きませんでした。千夏が大画面の薄型テレビをプレゼントしてくれたんですよ。テレビに向かって応援しました。
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気がかりがありました。
千夏はアテネに行く前から微熱があり、体調がよくなかったのです。「大きな病院で診てもらいなさい」と、うるさく言ったんですが、千夏は「いい、いい」と、取り合いませんでした。独立して練習に忙しい千夏の様子はよく分からないから、結局、ちゃんと診てもらったのかどうか…。病気らしい病気をしたことがないから、体力を過信していたのではと思います。私が近くにいれば、なんとしてでも病院に連れて行ったのにと思うと…。
でも、原因が分かったとしても、体調不良を理由に、目標にしていた五輪を止めるなんて言えなかったのではとも思うんです。
中学のときに「五輪に行く」と書き残していました。夢として「行きたい」ではなく、将来実行することとして「行く」と。だから、周囲がいくら言っても千夏は聞かなかったでしょう。
五輪で予選落ちしたのも無理なかったと思います。
帰国して近くの病院に入院しました。急性腎盂(う)腎炎との診断で、約1週間入院しました。2度目の入院は翌年4月下旬から約2週間。骨盤内に腫瘍(しゅよう)が見つかり、数日後に東京都内の大学病院に転院しました。手術はそれから約2カ月後。虫垂がんでした。膀胱(ぼうこう)などにがんが浸潤していたということでした。
医師が手術室から出てきて、待っていた私に、「(がんを)取り切れない」というのです。
その5日後には「余命20カ月」と告げられました。このことは本人には告げませんでした。千夏は分かっていたのか、いなかったのか…。でも、北京五輪、ロンドン五輪に出場する目標をあきらめていませんでした。早く退院することだけを願っていて、そんな千夏をみると、「20カ月」といわれても、私もまさか死ぬなんて想像もできませんでした。
でも、その後、がんとの闘病が始まりました。アテネ五輪の年に分かった不調。今から思えば、間が悪かったとしかいいようがありません。
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【プロフィル】森千夏
もり・ちなつ 昭和55年生まれ。姉、兄との3人兄弟の末っ子。中学から砲丸投げを始め、平成16年に日本選手として初めて18メートルの壁を破る18・22メートルを記録。アテネ五輪に砲丸投げで出場。予選敗退し、雪辱を誓ったが、18年8月、虫垂がんのため死去。26歳だった。
(2006/11/20)