■望み続けた陸上復帰 陰で泣いた闘病生活 願い届かず無念の死
アテネ五輪に砲丸投げ選手として出場した故森千夏さんは、五輪後に虫垂がんが判明します。母、かよ子さんの看病もあり、千夏さんは北京五輪への夢を持ち続けました。しかし好転せず、今年8月、他界しました。かよ子さんは「最期まで千夏に接してやれただろうか」と自身を責める一方、死が「現実のこととは思えない」と話します。
(聞き手 柳原一哉)
「虫垂がんにより余命は20カ月」と医師から宣告を受けましたが、私は楽天的に考えていました。「まだいける」と。
親類など、身近な人はみな80歳まで生きていますし、千夏は入院前には友人とボウリングを楽しんだりするほど元気だったのです。
後で千夏が余命を知ったとき、「(母親の)素振りからまったく分からなかった」と言っていました。それほど私は希望を持っていたのでしょう。
しかし、なかなか治らない病気に、だんだん千夏の気持ちに変化が起こり始めました。千夏は当初、早く治して北京、ロンドン五輪に出場する。その後は、砲丸投げのコーチになりたいと言っていました。
納得するまでやらないと気が済まない性格です。アテネが不調に終わっただけに、現役復帰を望んだのだと思います。しかし、なかなか退院できず、千夏は「現役復帰は無理でもコーチとして陸上を続けたい」と言うようになりました。
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気持ちの変化は心の病にもなりました。
がんの手術以来、退院してもすぐ入院を繰り返す日々で、入院中の千夏は「パニック障害」と診断されました。
過呼吸を起こしたり、円形脱毛症が現れたり、病院中に聞こえるような大声で叫んだり、早朝に電話をかけてきて泣き出したり…。
携帯電話を病室で投げつけたこともありました。看護師さんには「(電話を)投げてもいいよ」と言っていただきました。でも私がとがめると、千夏は「投げてもいいといわれた」と強く言い返します。
「いつか死んじゃう」っていう不安で、すべてが怖かったんだと思うんです。
精神状態は一時、よくなりました。ただ、夜になると、暗くなるからか辛いようで、午後4時から10時まで付き添って、寝付きそうな時間まで一緒にいました。
看病や介護は大変でした。でも、そうやって娘と密度の濃い時間が過ごせたかなと思います。
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抗がん剤の影響で、90キロ台だった体重は50キロ台になっていました。今年8月4日の一時帰宅の際には、親類が見舞ってくれたんですが、千夏がめいをあやす手は骨が浮き出ていました。
一時帰宅できたのは「どうしても自宅がいい」と本人が言ったからでした。最期が近いため、医師がはからってくれたこともあるでしょう。
しかし翌5日、両足がしびれて「怖い」と言い出し、救急車を呼びました。血圧の上が50と、かなり下がり、危険だからと大学病院に戻りました。
6日、初めて痛み止めのモルヒネ注射。7日に病院から「容体がよくない」と電話があり、8日に昏睡(こんすい)。
9日、大きく息を吸ってそのまま息を引き取りました。看取ったのは主人で、私はそのときに間に合わず、みてやれませんでした。
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「密度の濃い人生を送った」といってくれる人もいます。新記録を作り、オリンピックにも出たんですから。
でも、やり残したことは、いっぱいありました。もっと大会にも出たかったでしょう。もっと記録も出したかったでしょう。陸上競技雑誌に掲載されていた平成17、18年の大会予定はチェックし、17年は出場予定を立てていたほどでした。
五輪での金メダルが最終目標だったから、消化不良だったろう、さぞ無念だったろうと思います。がんは、千夏の体も心も憎らしいほど奪っていきました。
千夏が闘病中に陰で泣き、気持ちがすさんだのも分かります。私にできたことは、残された時間、接してあげることだけだった。それだけに最期をみとってやれなかったのが心残りです。
千夏が亡くなって、私が知らないことがたくさん出てきました。今はアルバムなどを整理して過ごしています。
もしかしたら夢枕に立つかもって思ってたのですが、なかなか出てこなかった。まだ、遠くに合宿に行っているんだろうかと思ってしまい、千夏が亡くなったのが現実のことなのかどうか、分からないんです。
(2006/11/21)