□元兵庫県立総合リハビリセンター所長
■自立し結婚したドクちゃん、片腕で彫刻彫り上げた男性
■強い意志に多くを教えられ
ベトナムの結合双生児、ベトちゃんドクちゃんのドクちゃんに義足を作り、国境を越えて成長を支え続けたのは、世界でも有数のリハビリテーション医、澤村誠志さんです。澤村さんは「障害の克服には自らの意志とそれを支えるケアが不可欠」と訴えます。しかし、そんな澤村さんも、自身の母親の介護では、思うに任せないことも多かったようです。2回にわたりお伝えします。(北村理)
ドクちゃんが結婚式で、新婦の手をとり、祝福されているのを見て、感無量でした。
何よりも、車いすや松葉づえを使わず、彼の「足」で立っていることが、これまで15年間、義足の支援をしてきたわれわれへの恩返しのように思えました。
ドクちゃんが今日あるのは、日本の方々の支援もありますが、何よりも彼自身が15年前、義足をつけて歩く道を選んだことです。
私はこれまでおよそ半世紀にわたり、整形外科医として、兵庫県の県立総合リハビリテーションセンター(神戸市西区)を拠点に、日本で未整備だったリハビリテーション医療の道を切り開いてきました。
私は常日頃、患者さんには、機能回復へ向けて、早期の自立を促してきました。機能回復に取り組む時期が遅れれば遅れるほど、残された正常な部分の体力も衰え、身体機能が低下し、回復が困難になるからです。
実は、ドクちゃんの義足は、作れるかどうか自信がありませんでした。ベトちゃんとの分離手術で骨盤が半分しかなく、背骨が湾曲して、義足で重心を支えるのが難しかったこと。しかも、残された右足は、10歳になるまで、一度も歩いたことがなかったからです。
ベトナムのような途上国では、道が悪く歩きにくいうえ、気温が高く、ドクちゃんの義足のように、腰をおおうカバーのついたものは暑くて、はきづらいのです。また、ベトナムには、彼を支えるリハビリの専門家もいません。
義足は成長期には毎年、作り替えなければなりません。15年の間には、ドクちゃんが「痛い」と義足をつけることを嫌がったような時期もありました。それでも、毎年、手弁当のチームで支えてきました。しかし、ドクちゃんが自立した生活を送り、結婚までこぎつけたのは、何より、彼自身の強い意志でしかありません。
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もうひとり、印象に残る患者さんがいます。
この男性は69歳の時、脳卒中で右半身マヒになりました。言葉も不自由で、寝たきりでしたが、2カ月の訓練で、つえを使って歩けるようになりました。
退院の際、「これから何を生き甲斐にしたらよいのか相談に乗ってほしい」と言われました。
そこで、この男性がこれまで、どんな生活をしてきたのか知りたいと思い、自宅にうかがいました。すると、部屋に小さな彫刻がたくさんありました。
「若いころから彫刻に関心があり、彫り続けてきた」とのことでしたが、右半身マヒで、彫刻は半ばあきらめていた様子でした。
しかし、左半身はまだ機能が残っていたので、この機能を生かして、大きな彫刻に取り組んだらどうかと提案しました。右手がきかないので、細かい彫刻は難しくても、電動工具を利用したらどうかと思ったのです。
3年後、再び自宅に伺うと、目の前には、2・5メートルの弘法大師像が立っていました。
この時の彼の晴れ晴れとした笑顔は忘れられません。「さらにチャレンジしたい」というので、今度は、私の勤めるリハビリセンターに飾って、患者さんの励みになるような像の制作をお願いしました。
それから3年4カ月後、あのときの弘法大師像とほぼ同じ大きさの作品ができあがりました。つえをついた男性に女性の介助者が寄り添う像で、「ともに生きる、希望と勇気」と名付けられていました。
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ドクちゃんや、この男性を考えると、自立に不可欠なのは自身の意志だと思います。しかし、その力を呼び起こすには、患者さんを孤立させないよう、周囲の人が生活環境に合った支援をすることも必要です。
ドクちゃんの場合も、15年間の成長に応じたケアが、日本からの支援で維持され続けたことが大きく寄与してます。
患者さんの社会復帰へ向け、前向きな姿勢をどう作り、どうサポートしていくかは、リハビリの永遠のテーマです。
私はドクちゃんの成長を見て、逆に教えられることが多い気がしています。
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【プロフィル】澤村誠志
さわむら・せいし 昭和5年、神戸市生まれ。神戸医科大学(現神戸大学医学部)卒業。昭和44年、兵庫県立総合リハビリテーションセンター中央病院を設置。現在、名誉院長。平成7年、国際義肢装具協会(ISPO)の会長にアジアから初めて選出される。平成13年、日本福祉のまちづくり学会長。16年、神戸学院大学のリハビリテーション学部設置に尽力。17年、神戸医療福祉専門学校三田校校長。
(2007/01/18)