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澤村誠志さん(下)

 □元兵庫県立総合リハビリセンター所長

 ■弱者の社会参加 家族を含め支え 人間らしい生活に

 「一生の痛恨事」と、世界でも有数のリハビリテーション医、澤村誠志さんは、母親の介護を振り返ります。母親が認知症を発症して亡くなるまでの2年間を通して、人が人らしく人生を全うする大切さを、改めてかみしめています。(北村理)

 私には、一生忘れられない悔いがあります。リハビリの専門医でありながら、自分の母親を救ってやれなかったことです。

 母の秋子は約20年前、80歳で亡くなりました。母から「だめになったから、助けてちょうだい」と電話があったのは、そのおよそ2年前でした。認知症が出始めていたのです。

 私は当時、兵庫県の県立総合リハビリテーションセンター(神戸市西区)の所長を務め、国際義肢装具協会の仕事で海外に出かけることも多かった。介護保険などない時代で、所得制限から訪問看護や介護の利用もできず、自宅周辺にはショートステイやデイケアのサービスもありませんでした。

 母の症状は急速に悪化しました。当時の私は、高齢者のQOL(生活の質)向上のため、在宅ケアの重要性を指摘していたこともあり、自らも実践しようと思い立ちました。

 ところが、そんな思いはすぐに打ち砕かれました。母は夜中の3時に、大声で歌を歌ったり、徘徊(はいかい)を始め、近所に迷惑をかけることが増えました。徘徊の末に骨折し、私の勤務する病院で手術をしましたが、スタッフに余計な気遣いをさせたくないと思い、すぐに退院させました。

 そのうち、家で失禁したり、便をいじったりの行動が始まり、ついに、私の顔も分からなくなりました。

                 ◆◇◆

 家族が崩壊する危機感を覚え、やむなく、自宅からかなり離れた山間部の老人病院に世話をお願いしました。

 しかし、「寝たきりが条件」と強調されたその病院では、入所者の死を待つばかりの介護が行われていました。

 母は8人部屋に入れられて、手足を拘束され、機械的に扱われました。6時間ごとのオムツ交換、点滴と薬漬けで、一度も車いすに乗せられることもなく、みるみるやせ細り、入所からわずか2カ月で死を迎えました。

 亡くなる1週間前、孫を連れて母に会いに行ったことがありました。私の顔さえわからない状況です。まして、孫の顔なんて分からないと思っていました。それが、孫の名前を復唱したその瞬間、母には確かに、孫のことが分かっていたのです。

 認知症についての研究は今と比較にならない時代です。それでも、母にはすまない気持ちでいっぱいです。月1回のショートステイでもあれば、家族が母の置かれた状況を考え直すこともできたかもしれません。

                 ◆◇◆

 最後まで人間らしい生活を送るには、やはり生き甲斐が必要です。母にとって、それは宗教でした。認知症が一気に進んだのも、母が事務局長を務めていたお寺でトラブルがあり、身を引かざるを得なかったことがきっかけだったように思います。

 家族の顔が分からなくなってからでさえ、法事でお坊さんよりもなめらかにお経をそらんじ、周囲を驚かせたこともありました。

 生き甲斐というのは、与えられるものではなく、その人が長い人生で培ったものだと思います。

 認知症対策の進んだ施設では、患者はプライバシーに配慮された個室で規則正しい生活をし、自分の趣味に生きることをサポートされているようです。

 年老いて体がきかなくなったとき、最後の最後まで周囲が温かく見守り、良き思い出のなかで人生を全うできるよう、手助けすることが必要です。

 私は高齢者や障害者など、「社会的弱者」といわれる人々がより良く生きるには、医療サポートと同時に、社会参加のサポートが必要だと思います。知識と経験のある専門家チームが、家族が余裕を失わないよう、孤立させないよう支えることが必要です。

 私が半生をささげた「リハビリテーション」という言葉は、資格や名誉の回復を目指し、障害があっても人らしく生き生きとした生活を送れる権利を回復する「全人間的復権」を意味するといわれます。

 母や私が接した患者さんの顔を思い浮かべるたびに、このことをかみしめています。

(2007/01/19)

 
 
 
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