■地域で産婦支えたい 家族集うサロン設立 病院との連携の場に
みずからも育児に悩んだ時期があったという矢島さん。助産所の近くで母子の飛び降り自殺があったことを契機に、母親や家族が集える場所をつくりました。今では医師との連携の場所でもあり、助産師教育も担うなど、365日24時間、明かりが消えることはありません。(北村理)
平成4年に現在の場所に開業してまもなく、今でも忘れられないショッキングな出来事がありました。このことが転機となって、助産所の活動が広がったのです。
近くのマンションから、育児ノイローゼの母親が子どもを道連れに飛び降り自殺をしたのです。
実は、私も助産師でありながら、育児に悩んだ時期がありました。
ふたりの息子は昭和48、49年と続いて、病院で産みました。
夫は仕事が忙しくて出産には立ち会えず、私はその後、知人も少ない都内のマンションで幼子2人と孤立した生活を送っていました。
当時はいらだって、ふたりの息子に手をあげることもありました。今では心の中で手を合わせてわびることもあります。
ところが、約10年後、長女を自宅出産し、それまでにない充実した気持ちになり、前向きに育児ができるようになったのです。
夫がかいがいしく世話をしてくれたり、息子ふたりが介助してくれたりして、家族とのきずなを再確認できたこと、完全に母乳育児をしたことで、穏やかな気持ちになれたことが、あったと思います。
こうした体験を、どうにかして育児に悩むお母さんたちに伝えたい、お母さんたちから自由に悩みを打ち明けてほしいと思っていた矢先に、母子の飛び降り自殺があったのです。
そこで、助産院の近くに一軒家を借り、サロンを設けました。ここでは今、ヨガ教室、食の講習会、マタニティーサークル、夫婦のためのランチの会などをやってます。
そして、今度は家族が集える場所として、もう一軒購入し、「ファミリーサロン」をつくりました。家族や助産師仲間、母親ら約200人の出資で実現したのです。みんな、助産所でのお産経験を大事にし、少しでもその輪を広げようと賛同し、参加してくれました。
◆◇◆
私は、助産所は「子供を産むサービスを受ける場所」というだけでなく、地域で母親を守り、子供をはぐくむ場所だと考えています。だから、助産所の名称を「母と子のサロン」にしたのです。
お産は待ったなしだから、365日24時間、必ず人がいます。ある日の明け方には、お産を終えたお母さんから「飛び降りて死にたい」と電話が入りました。この方は新生児を抱えていましたが、夫が海外赴任中でした。
すぐにスタッフが飛んでいって、抱きしめて安心させ、入浴させたり、マッサージしたりし、病院に連絡をとって薬も処方してもらい、事なきを得ました。
同様のケースだった別の方の家には、お弁当をもって毎日通いました。この方はその後、2人目も産み、精神的にも落ち着いたようです。こうした経験をした母親たちは、自分の経験を伝えたいといいます。やはり、そういう場も必要でしょう。
サロンは、地域の医師との連携の場所にもなっています。2年前から、医師と助産師の勉強会を月1回開催しています。このため、昨年は新生児の病院搬送がゼロになりました。妊産婦を早めに病院に転院させる判断が功を奏しているのです。
最近は高齢出産が増えているので、病院との継続的な連携は不可欠。転院で希望通り助産所で産めなかった場合でも、産後ケアや母乳育児のため助産所へ通う人は多いのです。
◆◇◆
サロンは助産師の教育の場としても活躍しています。助産師育成が急務なので、現在、全国十以上の大学から、泊まり込みで研修生が来ています。
こうした助産所の地域での役割を考えると、やはり、個人の力では限界があります。お産センターのようなものを地域でつくる必要があると考え、地元の国分寺市に「お産にやさしい街」にしてはどうかと提案しています。
私はことあるごとに、ふたりの恩人の言葉を思いだします。
母は「結婚しなくてもいいから子供を産め」といいました。お産は大事業だけれど、それだけに女にとって大切なこと。また、ある助産師学校の校長経験者は「戦後のお産は医療的な完全さを追求するあまり、母性をはぐくむことを忘れていた」といいました。
どちらも、私にはとても奥深い言葉です。
世代から世代への命のリレーは社会にとって最重要なことです。
その重責は、子を産む母親ひとりでは負いきれません。家族や地域の手助けが不可欠です。助産所がそんな場所でありたいと思い続け、今日も、仲間の助産師たちと眠い目をこすりながら奮闘しています。
(2007/03/09)