□ダウン症の息子と共に
■障害者の可能性信じ 親には意識改革促す 真の自立めざし訓練
息子がダウン症と宣告され、悩み続けたという森下正彦さん(59)。悲しみを振り切って息子に向き合い、二人三脚で歩み続けるうちに、社会福祉法人を開設し、多くの障害者とかかわっていこうと考えるようになったといいます。(北村理)
現在、理事長を務める施設では、設立の翌年度から毎年、定員30人の知的障害者のうち、10人前後が就職します。
こうした実績を上げているのは、親として自立を願う息子の正賀(まさよし)への思いがあったからです。
正賀は、私が鉄工業の会社をスタートしてまもなく生まれました。りりしい顔立ちに、会社の跡継ぎの夢を描いたものです。しかし、産後2日目、事態は急変しました。医者に呼ばれ、「ダウン症です」と宣告されたのです。
妻の待つ病室へ向かう廊下は真っ暗なトンネルのようでした。職場に帰って、溶接のマスクで顔を隠し、人しれず涙を流しました。
さんざん泣き暮れて、ふと、「健常者にはなれなくても、(後継者を育てる気持ちで)障害者のなかのエリートにしてやれ」との思いにいたりました。
それからは、正賀を積極的に人前に出すことに努力を傾けました。
もちろん、人前に出れば、いじめにあうこともありました。そうしたことを、息子から告白され、親として言葉が出なかったことも幾度かあります。
幼少時から水泳教室に通っていますが、あるとき、「辞めたい」と言いだした。10年以上続けても、健常者よりうまくなれないことに悩んだようです。私は「プールに行ってくれることがうれしい」とだけ伝えました。息子は今は、自立してほしいと願う親の気持ちをくみ取ったのか、通い続けています。
私は、息子に「けっしてあきらめない」ことを信条に接しています。このことは、人を活(い)かす経営者の道に通じることでもあります。経営の方針を明確にし、経営者の意思をどの社員にも理解してもらい、生きがいをもって働いてもらう。
こうした会社運営のありかたは、社員が健常者か障害者かによる違いはないと考えています。
私が理事長を務める障害福祉サービス事業所では、会社に障害者がお世話になるという頼み方ではなく、個々の障害者の特性を最大限にアピールすることを心がけています。
一方で、事業所のスタッフには、経営者の集まりや勉強会などに顔を出して経営側のニーズを的確にくみ取る努力をしてもらっています。
こうした人のつながりが契機となって、「パソナ」との農場の共同経営も実現したのです。
そもそも、私が事業所の前身の授産施設を立ち上げたのは、自分の会社で障害者を雇った際、ほかの社員から「就職する前に、社会人になる訓練をする場が必要なのではないか」との声が上がったからでした。
ちょうど、正賀が成人するころで、将来の就職を考えねばならないころでもありました。
親が子供の自立を願い、就職を望んでも、会社のお荷物になっては仕方がない。本来なら、親はもとより、養護学校が自立の訓練をするところですが、現実はそういう役割を果たしていないことに初めて気づいたのでした。
立ち上げた授産施設では、売れ残るようなものを無計画に作るのではなく、確実にニーズがあり、習熟すれば採算がとれやすく、役割分担も明確なクリーニングを業種に選び、顧客を満足させる仕事の仕方や納期の守り方などを徹底して指導しました。
そこで、あることに気づきました。習熟するに従い、障害者同士で作業や手順を教え合い始めたのです。個人差はありますが、作業はていねいで手を抜かず、自分の仕事は休日返上でもこなします。
こうした障害者の可能性に気づいてもらうため、私の事業所では親に意識改革を迫ります。ともすれば、親には「預かってもらう」という意識が強い。そうすると、ちょっとしたことでも仕事を休ませてしまう。それでは仕事になりません。ひいては自分の子供の自立にはつながらない。
障害のある子供を持つ親のつらさはよく理解しています。私自身が長い年月、葛藤(かつとう)を繰り返してきたのですから。でも、「こんな気持ちはほかの人に分からない」といってしまったのでは、問題は解決しません。
わが子を信じ、あきらめないことで、正賀は後輩を指導する立場になり、今や、私にも事業所にもなくてはならない存在です。
こうした思いを1人でも多くの親と共有していきたいと思います。
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【プロフィル】森下正彦
もりした・まさひこ昭和22年、埼玉県生まれ。高専卒業後、昭和52年に鉄工業の会社設立。55年、正賀さん誕生。平成15年、通所授産施設の社会福祉法人「ビック・ハート」理事長に就任。18年、障害福祉サービス事業所に移行。同年、人材派遣会社「パソナ」と「ゆめファーム」を設立。19年、千葉県中小企業家同友会の障害者問題委員長に就任。
(2007/04/13)