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作家・大庭みな子さんの夫、大庭利雄さん(下)

大庭利雄さん


 ■10年超える介護生活は「セカンドハネムーン」、今は母のような気持ち 

 芥川賞作家の大庭みな子さん(76)が倒れて今年で11年。介護生活を「セカンドハネムーン」とたとえる夫の利雄さん(77)は、11年の歳月を振り返り「母親とは、このような気持ちなのだろう」と話します。(聞き手 永栄朋子)

 みな子と出合ったのは昭和24年。私の友人の妹の友達で、何人かで富士山登山に行ったのがそもそものなれそめです。文通で交わした手紙が印象的でね。私には(芥川賞の)選者の素質があったかもしれません(笑)。

 私は勤めていたパルプ会社を54歳で辞め、みな子の秘書代わりをしていました。会社のために頭を下げて暮らすより、いい生き方があると思ったのと、工場の周りの木が枯れたり、クジラが来なくなることに、胸が痛みましてね。

 私はよく会社で「女房が稼いでいるから、いつ辞めてもいい」なんて言っていましたが、みな子はみな子で、編集者に「売れるものを書いてください」と催促されても、「夫に食べさせてもらってるからいいの」などと言っていたようです。みな子が倒れて2人とも職なしになってしまいましたが(笑)。

 退職時には皿洗いしかできませんでしたが、みな子に言われて料理を始め、一通りできるようになっていたので、助かりました。 

 介護するようになって、主婦業はたいしたものだと感心しました。医者の勧めもあってスポーツクラブに通っていたのですが、万歩計はせいぜい1日6000歩。

 ところが、介護を始めたら、たいした外出もしないのに、すぐに1万歩を超えるようになったのです。おかげで持病の狭心症の手術も1度もせずに済んでいます。

                   ◇

 リハビリには熱心ではなかったみな子ですが、作家仲間や編集者から見舞いのたびに「書くことがリハビリよ」などと勧められ、その気になりましてね。

 最近はみな子もあまり調子がよくないので休んでいますが、口述でよく筆記したものです。リビングと寝室にワープロが1台ずつあり、みな子がしゃべったことを私がワープロで打つんです。紫式部文学賞をいただいた「浦安うた日記」は、倒れてからの作品です。

 みな子が倒れてから、やめていた車の運転を再開。旅行にも連れて行きました。倒れて4年目には、30代を過ごしたアラスカにも行きました。主治医には驚かれましたが「励みになるかもしれない」と言われましてね。

 住んでいたのは、交通手段が飛行機しかないようなアラスカの島。よくもまあ、こんなにさみしい地に暮らしていたものだと思いましたが、振り返ってみると、家族3人がみんな元気で、一番思い出深い時代ですね。

 飛行機での長旅はみな子にはきつかったようですが、それでも窓からアラスカの原生林が見え出すと涙ぐみましてね。家族のような付き合いをした友人たちもみな70、80代。思い出話に花を咲かせ、別れ際に、みな子は必ず泣きました。

                   ◇

 介護生活も11年になります。最初はついイライラして、きついことを言ってしまいましたが、慣れてしまえば介護生活は「セカンドハネムーン」のようだというか。

 今は私に神経痛があるのでヘルパーさん任せですが、去年までは私がみな子を風呂に入れていましたし、ある意味、新婚時代以上の付き合いですからね。今はその時期も越えて、母親のような心境です。

 みな子の病気は眠りがちな傾向があるようで、今は眠っている時間が長くなりました。しかし、寝たきりにさせないように、天気がいいときは車いすで近所を散歩するようにしています。寝たきりは本人が一番気の毒ですし、1週間も入院すると筋肉が衰えて、立たせるのに苦労しますからね。

 もちろん、みな子が元気な方がいいですよ。でも、負け惜しみではなく介護をしてよかったと思うことも多いんです。ヘルパーさんを始め、すばらしい人たちとの出合いもありました。

 みな子は「私の利雄中毒は治らない」とか、お風呂に入れていたころは「元気になったら、利雄がお風呂に入れてくれないからこのままでいい」なんて言いましてね。

 介護する私にとっては、みな子のまひが言語能力をつかさどる右側ではなく、左側であったことは幸いだったのかもしれません。

(2007/05/04)

 

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