■手が震え文字書けず 病院を訪ね歩いても「心の病」と診断され
京都市にある大谷大学院生の難波教行さん(24)は子供のころ、手が震えて字が書けなくなりました。病院を訪ね歩いても「心の病」と言われるだけ。難病のジストニアと分かったときは、悲しむどころか喜んだそうです。病名が分かれば、治療の望みが持てるからです。しかし、病状は刻々と進行します。今は元気に学生生活を送るまでになった難波さんに、十数年にわたる闘病生活を聞きました。(聞き手 永栄朋子)
最初に体の異変を感じたのは小学2年生の正月明けでした。宿題をやっていたら急に字が書けなくなったんです。
「字が書けない」と言う僕を、両親は最初ふざけていると思ったようです。宿題をやりたくない口実だと。でも、右腕の筋肉が緊張して、書いた線を止められない。
仕方なく左手を使ったら自然に書けた。右手のことは「なんで?」と思ったけれど、左手が使えたので、僕も両親も深刻にとらえませんでした。問題があると気付きたくなかったのかもしれません。
ところが小学3年になると、コップを持つことも難しくなりました。祖母はそのころ、僕の手について、よその人から「病院には通ってはるんですか?」と聞かれたんです。それまで障害じゃないと思いこもうとしていた母も、「ほかの人から見てもおかしいんだ」と、現実を受け止めざるを得なくなったそうです。
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病院に行くにも、何科を受診すればいいのか分からない。児童相談所に電話したら、とにかく来るように言われ、そこで、精神科医に心身症の一種の「書痙(しょけい)」と診断されました。「プライドが高く、目標に達しないストレスで書けない」と。
治療として遊戯療法が採られました。モグラたたきとかボールとか、遊具がたくさんある部屋で担当者と遊ぶんです。2、3週間に1度、1年くらい通ったかな。でも、子供心にも、これで良くなるとは思っていませんでした。ほかに方法がないし、遊戯療法自体は楽しいから通っていたのが本音です。
そのうち、右手は何もしていなくても大きく震えるようになりました。精神科受診を勧められ、CTスキャンやMRIなどの検査も受けましたが、どれも「異常なし」。母は僕のことをいろんな人に話し、「同じような人がいないか」「何か手がかりはないか」と必死で探していました。
小学4年生の秋には左手も不自由になって、鉛筆を持った手をほっぺにくっつけて押して字を書くようになりました。子供って大人より、ずっと人前で字を書く機会が多いでしょう? 黒板だって写さなきゃならないし。初対面の人の前で字を書くのは、すごく嫌でした。
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大学病院を紹介されたのはそのころ。有名な大学だったし、建物も立派で、今度こそ何とかなると期待しました。でも、やっぱり診断は「精神的なものからくる書痙」。
また「心の病」かと、がっかりでした。でも、初めて薬を処方してもらい、治療らしくなってきたのはうれしかった。緊張を和らげる薬を飲み、服薬前後に字を書き比べたり。あんまり効いている気はしなかったかな。僕も母もすでに精神的な理由ではないと思っていました。「精神的な〜」と言われるには、僕はあまりに元気でしたから。
闘病中はいろんな病院をはしごしました。病状が進む中で、母は先生に「ほかの治療方法も試したい」と頼むこともありました。実際、針治療や心身医療を研究するところに通ったこともあります。そういうのが重なると、主治医の先生には気持ちのいいものではないから、中には「どこでも行ってください」と不機嫌になってしまう先生も。でも、どこに行っていいのか分からない。だから、結局、今の病院で診てもらうしかないという感じでした。
最終的にジストニアと分かったのは小学5年生のとき。大学病院の医師が別の個人病院の医師を紹介してくれました。その先生が初めて「精神的なものではない。神経内科の病気だと思う」とおっしゃって、神経内科の専門病院を紹介してくれ、そこで分かりました。
筋肉のコントロールができなくなる難病とのことでしたが、病名が分かって、本当にうれしかった。ずっと「心の病」と言われ続けたのが、やっと病気と認められたんですから。母も同じ。たとえ難病でも、病名さえ分かれば、いつか治るかもしれないと、うれしかったそうです。
こんなふうに始まった闘病生活ですが、中学生になると字が書けないなんて、なんて軽い悩みだったんだと思うようになりました。
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【プロフィル】難波教行
なんば・のりゆき 昭和58年、大阪府生まれ。小学生で難病「ジストニア」発症。闘病生活を送りながら、一般の中学、高校に通い、現在は大谷大学大学院生。平成15年に手術で回復。「歩けるようになったときは、スーパーマンになった気がした」。実家は浄土真宗の寺。将来は父の跡をついで僧侶になるという。著書に「たとえば、人は空を飛びたいと思う」(講談社)
(2007/07/12)