■「終の棲家」引っ越し・心細がる母のために・同じよう内装を工夫
女優の坪内ミキ子さん(67)は寝たきりになった母親の変わりぶりにとまどいながらも、介護をスタートさせました。6年間に及ぶ介護の間には、母親の入退院、母が「終(つい)の棲家(すみか)」と決めていた同潤会アパートからの引っ越しも経験しました。介護を通して、「終の棲家」を改めて考えたといいます。(聞き手 佐久間修志)
母の介護を始めて2カ月後の平成9年11月、母は発熱で入院しました。入院初日の夜は、病院が「世話しますから大丈夫」といってくれましたので、帰宅して手足を伸ばして寝ました。ところが翌日、病院に行くと、ナースコールを15秒おきに鳴らしたらしく、一騒動になっていました。
隣の病室の方からは「夕べは大変だった」などと言われ、肩身の狭い思いをしました。結局、入院中にもかかわらず、ヘルパーさんたちにお世話になり、誰かが必ずそばにいる態勢を取って、ようやく母は落ち着きました。心細かったのでしょう。
態勢は整いましたが、費用も並大抵ではありませんでした。母は自分の「葬式代」として、それなりの葬儀が何回かできるほどの貯金をしていましたが、それも入院生活で底をつきました。11カ月入院して、退院しましたが、あとは通帳とにらめっこの日々でした。
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母は宝塚歌劇団の第1期生で、それもスター第1号だったらしいです。「雲井浪子」という芸名でした。当時の歌劇団は母いわく「学芸会に毛の生えたような出し物だった」そうですが、母にも「追っかけ」や「取り巻き」がいたといいます。
母は宝塚に演出家として加わっていた父と結婚。昭和9年に建てられた「同潤会江戸川アパートメントハウス」に住むようになりました。アパートは当時、大学教授や学者、医師などの知識人が住んでいまして、質の高いコミュニティーが生まれていました。
そんな「江戸川アパート」を、母は「終の棲家」と考えていたようです。いつも「ここを出たくない」と話していましたから。
きっと、アパートでいろいろ「開眼」したのではないでしょうか。主婦開眼。母親開眼。スターの座から離れた遅ればせながらの青春。便利で快適だった住まいに、中庭の緑、人間関係も楽しかった。そんなアパートに愛着を持つのは私にも分かる気がします。
入院当初、あんなに心細がったのは、もう長年住んだ自宅には戻れないんじゃないかと考えていたのかもしれません。
母を退院させるタイミングは、もう少し早い時期にもあったのですが、病院のケアがなくなったらどうなるだろうと、正直恐れていました。でも、退院の翌日には母も落ち着いていて、今ではもっと早くに退院させればよかったと思います。
在宅介護でのポイントは、やはりヘルパーさんでした。
介護の仕方は、同じヘルパーさんでも人によって全然違いますね。母は耳が聞こえませんでしたが、耳元で大きな声を出せば聞こえたんです。それなのに、口に向かって話しかけたり、離れた場所から「はいはい、どうしたんですか」とか、声だけで対応している人もいました。
介護を通じて、その人の気持ちが出ます。好意を持ってやってくださる人と、仕事としてしか考えていない人では違いますね。本当は思いやりがある人でも、言い方が荒っぽかったり。相性もありますしね。
幸い、最後の時期についてくださったヘルパーさんは愛情にあふれ、身内のように接してくださる方でした。
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母が終の棲家と心に決めた同潤会アパートでしたが、亡くなる約1年前、取り壊しのため、仮住まいのマンションに引っ越すことになってしまいました。幸いなことに、母はそのころには、ずっとうつらうつらしている状態でしたから、引っ越すことができました。私も掛け軸の位置を工夫したり、今までと同じ住まいに見えるように工夫しました。仮住まいに移ってからも、「ここは江戸川アパート?」と何度も尋ねていました。
アパート住人がすべて立ち退いて1年後の15年夏。アパートの敷地が更地になったのと時を同じくして、母も102年の生涯を閉じました。
花によし 秋は虫の音
我が城は
劣ることなし
老いたればとて
晩年、母が詠んだ歌です。モダンさで注目を集めたアパートも年月を重ねて朽ち果てました。それを寝たきりとなった自分の姿に重ねていたのかもしれませんね。
(2007/09/21)