産経新聞社

ゆうゆうLife

画家・大野勝彦さん(63)(下)

自らの作品の前で創作の背景などを語る大野さん=東京都千代田区


 ■肌で感じた家族の愛 筆持って集中力培う 絵から新たな出会い 

 事故で両手をなくした大野勝彦さんは、ゼロから絵を描くことにトライします。大野さんは、最も大事なのは「集中力」だといいます。義手に付けられた2本の指に筆をはさみ、風景や花、食べ物などを繊細に描きます。阿蘇などに開いた美術館には、共感する大勢の人が集まっています。(中川真)

 両手を失ったことで、逆に、多くのものを得たと思っています。最大のものは、肌身で感じた家族の優しさです。

 妻は2カ月間も病室に寝泊まりし、一緒に過ごしてくれました。3人の子供たちは、「お父さんに心配をかけないようにしよう」と話し合い、私の前では、常に明るく振る舞ってくれました。子供たちが書いた手紙を読んで、人前で初めて泣きました。

 「何としても生きなければならない」

 私は何時間もかけて、「生きる」という詩を書きました。

 「死んだと思えばいい 死んだつもりでもう一度 残った命をまっとうしよう 甘えと後悔は許されない これからの旅立ち 身ぶるいに似た戦慄(せんりつ)がある」

 もうひとつ、得たものは「時間」です。仕事や地域の活動、仲間との付き合いなど、かつては常に忙しく、自分自身や家族とじっくり向き合うことができませんでした。

 手術を重ねるごとに、短くなっていく腕を見つめるのはつらかったですが、痛さ、不自由ささえ我慢できれば、自由な時間を使いまくることができる。「生きるぞ」という希望が、徐々にわいてきました。

                   ◇

 退院し、阿蘇の大自然に身を置くと、つらいことも、自分の運命も、何の抵抗もなく流れていきます。不自由を受け入れ、泣き言や甘えは捨ててしまおう。「人生最後の一秒まで完璧(かんぺき)に生きる」ことを誓いました。

 「手のないことは忘れる」

 「日常のことは全部自分でやる」

 「元の明るい笑顔を自分の中に取り入れる」

 この3つを自分との約束とし、義手での生活に没頭しました。

 詩だけでなく、絵を描くようになったのは、筆に慣れるためで、もともと絵心なんてありませんでした。皿に落とした墨を使って、朝の風景や看護師さんを描いて遊んでいました。

 そんな絵なのに、看護師さんや他の患者さんたちは、「すごぉい、ちょうだい」と大喜びです。「こんなに喜んでくれるのなら、もっと本格的に絵を描いてみたい」と絵の世界にどんどんひかれていきました。

 義手の指を動かすときには、肩ひじの力を使います。肩ひじの筋肉を動かしながら、指をコントロールするんです。

 最初は、ぼろぼろ落とすこともありましたが、筆をつかむことは、集中力の訓練にもなります。指に全神経を集中させ、力の加減を調節しなければならないからです。

 これは、字を書いたり絵を描いたりするときだけでなく、日常生活でも重要なことなんです。

 例えば、喫茶店に入って、みんなでお茶を飲むとしますね。私はカップの取っ手を義手の指でつかみ、口に持っていくのですが、こういうとき、本当に気を使います。

 仮に、私がカップを落として、割ってしまっても、お店の人は「手がないんだから、仕方ない」と寛容に許してくれるかもしれません。

 でも、そのことによって、お店の中の雰囲気が一気に暗くなるのが、嫌なんです。せっかくの楽しい雰囲気が消え、私への同情一色になってしまう。

 そんなことだけは、絶対に避けたい。だから、物をつかむという、本来なら何ということもない動作も、真剣にならざるを得ないんです。

                   ◇

 絵を本格的に勉強し、作品として少しずつ認められるようになると、学校など、さまざまな場で講演をすることが増え、出会いも生まれました。

 当時、熊本県立劇場の館長で「日常塾」を主宰していた鈴木健二先生(元NHKアナウンサー)や長年、掃除哲学を実践してきた鍵山秀三郎先生(カー用品大手、イエローハット相談役)といった方々の知己も得ました。

 そして、私も話し方や読書、はがき絵などの勉強会「やまびこ会」を始め、500人を超える仲間ができました。

 阿蘇の自然の中で、絵を描き続けるうち、自分の美術館をつくりたくなりました。保養施設のあった土地を熊本県から買い取り、美術館にリニューアルしたのです。

 美術館では、作品だけでなく、私の創作の現場も直接見ていただき、おいでになった方と、できる限りお話をしたいと心がけています。

(2007/10/05)