産経新聞社

ゆうゆうLife

元プロ野球選手 盛田幸妃さん(37)(下)

「病気になって、お金では買えないものを学んだ」と語る盛田さん=横浜市


 ■半年リハビリに専念 1軍復帰、初めて涙 人への思いやり学ぶ

 大魔神、佐々木主浩さんとのダブルストッパーとして一世を風靡(ふうび)した盛田幸妃さんは周りの支えと不屈の闘志で絶望のふちから浮かび上がり、見事復活を果たします。今も、髄膜腫の後遺症と闘う盛田さん。病気と向き合うことで、人として大切な、たくさんのことを学んだと感じています。(横内孝)

 平成10年9月10日。12〜13時間に及ぶ手術を受けました。術後は意識がぼわーんとしていました。でも、足も、手も動く。明日歩いて、すぐ投げられる。正直、そう思いました。

 その後、ICUへ。のどが渇いて、何か飲もうと、体を動かした瞬間、右半身をけいれんが襲いました。それが2回。その後は右半身がまったく動かなくなりました。

 先生に状態を尋ねても、「脳が腫れているから」を繰り返すばかり。先生の言葉で、足が動かないことは半ばあきらめもつきました。でも、手が動かなくなるなんて、聞いていない。もどかしさにイライラが募りました。(右手で)ボールを投げていた実感があるから、プライドが許さなかった。手術が失敗したんじゃないか、そんな考えも芽生えて…。「死ねる薬をくれ」と、嫁さんにあたり、気持ちもすさみました。

 1週間ぐらいして、足首のリハビリが始まりました。自分の意志では動かせないので、電気で刺激を与えて。手の方はといえば、少しずつですが、動いてきました。ただ、スプーンでご飯を食べるにも、思ったところになかなか届かない。先生に勧められて、写経もやりました。野球と同じで、うまくなってくると面白くなってくる。

 入院後、1カ月もすると、足首を固定する装具もでき、ちょっと歩けるようになった。気分も落ち着き、変なプライドもなくなり、個室から出て、リハビリ室へ通うようになりました。退院まで残りの20日間は朝から晩までリハ室に入り浸りでした。

 退院後、6カ月あまり、実家から車で15分のリハビリ専門施設へほぼ毎日、通いました。

                  ◆◇◆

 一度はあきらめた球界復帰。それを再び、目指そうと思ったのは、あるひらめきがきっかけでした。

 当時、所属していた近鉄バファローズはパリーグだから、投手がバッターボックスに入る必要はない。ある程度投げることができて、バント処理とベースカバーができればいいんじゃないかと。幸い、ボクにはシュートがある。2月1日、ちょうどキャンプインの日でした。

 それで、足首を固定する装具をいろいろ開発していきました。パラリンピックで活躍する選手に自分を重ね合わせ、希望をつないだんです。なえてくる気持ちを奮い立たせ、リハビリに打ち込み、その年の5月半ば、ようやく2軍に合流しました。

 11年10月7日の藤井寺球場でのロッテ戦で1年2カ月ぶりに1軍マウンドに復帰しました。球場は「がんばれ、盛田」の大コール。

 いま思うと、球団が、ご褒美に近い形で与えてくれた機会でした。よくここまで来たなというのが正直な気持ち。野球人生のなかで、初めて感動しました。嫁さんはスタンドで泣いていたし、ブルペンカーでマウンドに向かうボクも初めて涙がほおを伝った。ドラマじゃないですが、これまでの苦しかった出来事が走馬燈のように浮かんできて。

 現役としてプレーしたのはそのあと3年間。14年10月の試合を最後にユニホームを脱ぎました。

 その後は、プロ野球解説者として野球にかかわっていましたが、3年後、しばらく、なりを潜めていた、けいれんが再び、始まったんです。おかしいなと受診すると、髄膜腫が見つかりました。再発です。昨年2月の手術では髪もそらず、わずか2週間で退院し、次の日から仕事に復帰。医学の進歩を肌で感じましたね。

                  ◆◇◆

 病気になって思うのは、少しでも体調がおかしかったら検査を受けること。ボクみたいに、我慢するのはよくない。早いうちに発見、手術すれば、こういう状況にはなっていなかったと思う。あとは病気と仲よくつきあうことですね。28歳で発病し、36歳で再発。これで終わりかというと、そんなわけはないと思うんですよ。いずれ、またなると考えた方が…。

 でも、もし、病気にならず、あのまま活躍していたら、他人のことをあまり考えないままの人間だったと思う。病気になって初めて、弱者の気持ちが分かる。小さいときから野球がうまくて、強くて。ボクはいわゆる勝ち組。それが突然、障害を持ったわけですよ。人を思いやる気持ち、お金では買えないものを病気から学んだということでしょうか。

(2007/10/12)