産経新聞社

ゆうゆうLife

作家・山本文緒さん(45)(下)

「今は再び小説が書けるようになりました」。晴れやかな表情でパソコンに向かう山本文緒さん=11月上旬、長野県の軽井沢ロンギングハウス


 □鬱状態を3年間経験した作家・山本文緒さん

 ■夫の存在がストレスに 闘病生活支えたのも夫 一歩ずつ進む再生の道

 直木賞作家の山本文緒さん(45)が、3年間の鬱(うつ)状態から回復を見せたのは、周囲の理解と協力があってこそ。特に、再婚した夫(44)の心遣いは大きく、山本さんは「夫がいてくれたおかげで、4倍も5倍も早く病気が治った」と、感謝します。しかし、一方で、夫の存在が「ストレスの一因だった」と、心の葛藤(かっとう)も明かします。(佐久間修志)

 夫と結婚したのは、平成14年の3月。当初は別居でした。知り合う前にお互い、1人暮らし用に家を買ってしまっていて、どちらの家も大人2人が生活するには手狭でした。夫が私のマンションに泊まりに来ていた時期もありましたが、夫の仕事が不規則で、結局、別々に住むことになりました。

 だから、2回目の入院ぐらいまでは、週に1回と決めて、夫が家に泊まりに来ていたのです。それでも、病気の間、夫は家のことが何もできない私を気遣い、料理を作りに来たり、日常生活をあれこれと手伝ってくれました。

 私の病気が本当に悪くなってからは、一緒に暮らして支えてくれました。本当に1人で暮らせる状態ではなく、物理的に仕方なく、夫が暮らしてくれたという状態でした。

 鬱状態の妻の世話をするというのは、夫にはつらいときもあったようです。

 後で語ってくれたのですが、お酒を飲んでいたら私に急に「出ていけ」と言われ、首都高をぐるぐる走っていたら、今度は「帰ってきて」と言われたとか。私は覚えていないのですが、われながらひどいですよね。

 夫は、私の入院中、掃除ばかりしていたそうです。掃除をしているときしか気分が晴れなかったから、と。それを聞いて、ごめんなさいと謝りました。

 でも、そんな夫がいてくれたから、私の病気は4倍も5倍も早く治ったと思うんです。

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 夫の存在は、病気を治す上では大きかった。でも、1人暮らしの生活リズムが染みついていた当時の私にとっては、同時にストレスにもなっていたようでした。心療内科の先生にも、その点は指摘されました。闘病生活中の日記を見ても、前半は意固地になっていた部分がありました。

 夫が悪いわけではないし、私も拒絶しているわけでもない。けれど、病気のときは、自分の時間を乱されたように思えました。

 私は予定が狂うのが苦手。夫なのに、急に来られるのが嫌でした。来ると分かっていれば、大丈夫なんですけれど。再婚して日が浅く、1人の時間の使い方がしっくりしていた時期だったんでしょう。

 ただ、結婚や栄転など、おめでたいことがストレスになることは、誰しもあると思うんです。私の場合は、たまたま、ほかのストレスも重なったのですが。今となっては、別々に住むのは考えられないくらいです。

 ある程度、回復してからは、忙しい夫に食事を作ったりもしました。それも、病気を治す上でよかったかもしれません。それまでは、自分のことで頭がいっぱいで、他人のことまで気持ちが及ばなかった。夫の仕事が忙しくなり、ようやく人の事情を酌み取るなどが、多少はできるようになった。人の役に立つというのはうれしいことですね。

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 秘書や読者の方の支えも大きかった。本当に何もできない時期に、昔の本を読んだ人がホームページにポツンポツンと書き込みをしてくださったりすることがあった。

 それを見ると、「まだ山本文緒は死んでいないんだな」と励まされました。いずれはまた、新しい本を読者に届けたいという思いもわきました。

 実は、病気で最悪の状態だったときは、作家をやめてもいいと思ったんです。

 それまでは、小説を書いていない私には存在価値がないとすら思っていました。「私はもう、山本文緒という仕事を終えてしまったから、生きている理由がない」なんて。

 でも、最悪の状態だったときに、ふと頭に浮かんだのが、別に作家という仕事じゃなくても、生きていていいんじゃないか、という思いでした。オリンピック選手がけがで走れなくなっても、人間的価値がなくなるわけではない。家族も生きていてほしいと望むでしょう。

 小説を書けなくても、朗らかに生きていこうと思ったとき、立ち直る気持ちがわいてきました。

 結局、そう思うことで症状がよくなり、よくなったことで、書けなくてもいいとさえ思った小説を再び、書けるようになりました。きっと、必要な過程だったのだろうと、今は思っています。

(2007/11/23)