産経新聞社

ゆうゆうLife

走り高跳び選手・鈴木徹さん(27)


 ■事故でも夢失わず、陸上へ転向し成功 義足で跳んだ2メートル

 義足のハイジャンパー、鈴木徹さん(27)はハンドボール選手だった高校3年生のとき、交通事故で右ひざ下を失いました。「日本代表になる」。鈴木さんの夢はついえたかにみえましたが、天性の跳躍力と不屈の精神力で1年半後には“もうひとつの五輪”、パラリンピックでその夢を開花させます。「北京で金メダル。その先は健常者の大会で頂点を」。より高みを目指して、挑戦が続きます。(横内孝)

 夜を明かし、眠気を押して乗用車を運転、ガードレールにぶつかったんです。平成11年2月24日、高校の卒業式の1週間前でした。中学、高校とハンドボール部で、高3の国体では全国3位。筑波大学への推薦入学が決まっていました。

 負傷した右足は痛いというより熱く、ドクドクと脈打つ感じ。搬送先での緊急オペで元の状態にはしてもらいました。足があるとほっとしたのもつかのま、主治医から「1週間が勝負。その間に足に血が通えば、足がある状態で生活できますが、ダメなら切断します」と告げられました。3、4日経っても、状態に変化はなく、むしろ悪くなっている感じ。自分でも、ちょっと厳しいかなと。その夜、カーテンを締め切って今後のことをひとり考えました。事故はすべて自分のせい。切断することになっても受け入れよう。若さもあり、義足でもハンドボールはできるという気持ちになれたんです、不思議と。

 1週間後、ひざ下11センチを残して右足を切断しました。ちょうど卒業式の日。この足からも卒業だと。3カ月間に4度の手術を受け、6月初めに退院しました。

 リハビリのため、その日のうちに鉄道弘済会東京身体障害者福祉センターに入所しました。1週間後、義足ができあがったら、すぐに歩いて、走れると思っていた。ところが、松葉づえで歩くのがやっと。足を切断したときよりショックでしたね。リハビリは、歩くというより、痛みをこらえて一歩一歩進むという感じでした。1カ月後には松葉づえがとれ、3カ月後にはバランスを崩しながらも、補助具を使わずに歩けるようになった。義足は一にも二にも訓練。やればやった分だけ返ってくる。中には、痛みに耐えられなかったり、気持ちがくじけたりで、車イスを選んでしまう人がいるけれど、それは最後の選択肢にしたかったんです。

                   ◇

 半年後の復学を目指し、9月からは都内で1人暮らしをしながら、国立市の東京都多摩障害者スポーツセンターでリハビリとトレーニングに励みました。事故の1年後、誘われて中央大学の陸上競技場に足を運んだのが、アスリートとしての人生を決める分岐点となりました。ふと、脇を見ると、走り高跳びのセットがあって。中学時代に176センチを跳んだ覚えがある。遊び半分で挑戦したら、165センチを超えた。聞くと、当時の身障者の日本記録は150センチ。スポーツで世界にいきたいという夢があったので、ハンドボールより陸上の方が世界に近い。そう感じました。

 4月、復学して陸上部へ。5月のシドニーパラリンピック競技大会最終予選で181センチの日本新記録で優勝し、代表の切符を手にしました。

 競技を始めて7年目の昨年10月には2メートルを跳びました。世界で3人目、アジア記録でした。2メートルを跳ぶのが、始めたときの目標でしたから、やっとスタートラインに立てた。そう思いました。世界記録は今、2メートル10センチ。更新したい気持ちはありますが、まずは来年の北京での金メダルが目標です。シドニー、アテネの過去2大会では、いずれも6位。金メダルを取って障害者の大会で1位になったら、次は健常者と同じ舞台で勝負し、1位になりたい。障害者は劣ってなどいないという証しにもなるし、義足の可能性も広がる。

                   ◇

 一昨年、搬送された病院の看護師だった人と結婚しました。息子は8カ月。競技ができるのはあと数年ですから、スポーツで輝いている姿を見てもらいたい。失ったものは足だけ。それよりも、得たものがたくさんある。明るさだったり、前向きに進む姿勢だったり、人への感謝であったり。

 もし、「右足が戻ってくる」と言われても、ぼくは「要らない」と断れる。足がない自分が自分。2メートルも跳んだし、スポーツで注目されるようになった。血は通っていないけど、義足が自分の足という思いはある。すべてを受け入れたということでしょうか。

 ぼくが一番輝ける場所はスポーツ。夢をかなえるには、持っているだけではダメ。それに向かって、長く(努力を)続けることこそが大切。信じていることを、1人でも多くの人に伝えていきたいと思います。

                   ◇

【プロフィル】鈴木徹

 すずき・とおる 昭和55年、山梨市生まれ。身長178センチ、体重63キロ。駿台甲府高から筑波大に進学したが、事故で1年間休学。16年卒業。12年のシドニー、16年のアテネ両パラリンピックで6位入賞。18年10月、ジャパンパラリンピックで世界3人目の2メートルジャンパーになる。全国各地の小中学校などで講演活動も行っている。公式HPはhttp://suzuki−toru.com/

(2007/12/20)