産経新聞社

ゆうゆうLife

故遠藤周作氏夫人 遠藤順子さん(80)(下)

亡くなる前年、順子夫人と国立劇場を訪れた遠藤周作氏=平成7年8月


 ■意思に反し人工呼吸器、外して迎えた臨終の時、穏やかな顔に励まされ

 作家の故遠藤周作氏は生前、文学活動と同じくらい、医療者と患者が心温かな人間関係をつくる運動に情熱を注いだといいます。無駄な延命治療の中止も、その運動の一つでしたが、自身の臨終の際には、その意思が反映されなかったといいます。順子夫人は長い看護生活を経て、周作氏から「死は終わりじゃない」とのメッセージを受け取ったと話します。(永栄朋子)

 主人の最後の闘病生活を振り返るとき、主人が昭和57年に始めた「心あたたかい病院運動」について、触れずにはいられません。

 主人は「終末期は心温かく安らかに死ぬべきだ」と提唱しました。きっかけには、わが家のお手伝いさん、友ちゃん(享年25)との悲しい別れがありました。

 友ちゃんは骨髄のがんで、病気と分かったときにはすでに手遅れでした。余命1カ月なのに検査、検査で…。主人は毎日病院に行って、主治医に「助からないなら、つらい検査はやめてくれ」と掛け合っていました。

 「もう助からない病人にわれわれができることは、そばで手を握って、君は1人じゃないと伝えることだ」と。

 そして、「医者が『あと1カ月の命』というなら、『あと1カ月で楽になるそうだよ』と言い換えることだ」と申しておりました。

 当時の医療は治らないと分かったら、放っておくか検査づけにするか、どちらかでした。主人は友ちゃんの死後、医療者は明らかに無駄だと分かっている延命治療をやめ、死に逝く人の話を聞き、心に寄り添ってほしいという意見をマスコミに発表しました。しかし、「素人が何を言う」「売名行為だ」と批判も大きかったんです。

 でも、主人は「これは日本人として、絶対に言わなければならない」と、文学と同じくらいの情熱を注いで取り組んでいました。

                ■□■

 主人は最後の数カ月は入院しましたが、腎臓病になってから3年半の闘病生活のほとんどを、自宅で過ごしました。

 透析でつらい夜が続きましたが、慣れてくると、昼間は仕事をしたり、友人と夕食を楽しんだり。透析で食事制限が緩くなったのには助かりました。

 意識はしっかりしていましたが、最後の1年くらいは、あまり声も出せなくなってしまって。結核も肝臓も糖尿もこれまでずっと2人で乗り切ってきたのに、今回ばかりは悪くなる一方。私は「どうして治らないの、こんなに祈っているのに」と、神も仏もいないと思いました。

 主人はどの病院に入院しても、常々、院長先生や主治医に「2、3日の延命のために、苦しい延命治療や人工呼吸をしないでくれ」「心安らかに死なせてくれ」と、頼んでおりました。

 ところが、いよいよ臨終というときに、「奥さま、ちょっと出ていてください」と、部屋から出されてしまったんです。「どうぞお入りください」と通されたときには、主人が一番、嫌がっていた人工呼吸器がつけられていました。

 本当にびっくりしました。でも、先生方は主人の意思をよくご存じだったから、これは2、3日の延命のためじゃなくて、快方に向かうために呼吸器をつけたんじゃないかと、思い直したんです。

 ところが翌日、「奥さま、もうそろそろよろしいですか」と。最初、何がそろそろよろしいのか分かりませんでした。そしたら、先生が「これ以上はおつらいことが増すばかりで…」とおっしゃったんです。「それだったらなぜ、人工呼吸器なんてつけたの」と、ものすごいショックでした。

 ずっと看病をしてきて、最後にいちばん嫌なことをさせてしまいました。それは遺族にとっては、とてもつらいことです。患者から「人工呼吸器ではなく、このまま安らかに」と言われたら、お医者さまもそれは守らなきゃ。死は軽いものじゃないのですから。

                ■□■ 

 結局、人工呼吸器を外しました。臨終の際の主人は、これまで一度も見たこともないような、穏やかでうれしそうな顔をしていました。「今、神様に会ったよ」というような。

 その顔を見ていたら、主人から「死は終わりじゃない。おまえにもまた会えるよ。愛する人との死別に出合うのは、おまえ1人じゃない。しっかりしろ」と、激励された気がしたんです。

 手と手を握りあって意思疎通をしたこの何年間がなかったら、受け取れなかったメッセージだったろうと思いました。主人を看病した3年半は肉体的にも苦しかったですが、このメッセージを受け取るためにあったのですね。「神様お見事です」と、そう思ったんです。

(2008/03/07)