産経新聞社

ゆうゆうLife

芥川賞作家、医師 南木佳士さん(上)


 ■突然襲った目まいと動悸 息子たちの存在が支えに

 信州の総合病院の勤務医として激務をこなしながら、作家としての地位を築きつつあった若き日の南木佳士さん(56)を鬱病(うつびょう)の影が襲いました。平成2年、芥川賞受賞の翌年でした。長い闘病生活の様子を、南木さんに聞きました。(文・永栄朋子)

 平成2年。38歳の秋でした。朝、いつものように病棟の重症患者さんの様子を見て回り、外来に向かおうとしたら突然、激しい目まいと動悸(どうき)に襲われて。「なんだろう? これは」と。

 少し休んだらよくなるかと、詰め所のベッドで横になりましたが、治らない。むしろ「このまま死んでしまうんじゃないか」といった不安が広がり、涙が出てしまって。

 当時、病院に勤めて13、14年目でしたか。外来を休診にしてもらい、家に逃げ帰ったんです。以来、病棟に向かう階段を上ろうとすると、ドキドキして、上れなくなってしまいました。

 最初は内臓疾患を疑い、勤務先に検査入院しました。異常はなし。でも、どうにも元気が出てこない。生存のはかなさというんでしょうか、そんなものを過剰に意識してしまうんです。それで、先輩医師に「鬱病かもしれない」と言ったら、「あんたみたいな人が鬱病になるわけないじゃない」と、それだけ(笑)。

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 活字中毒だったのに、本を読んだり、文章を書くのがダメになりました。1行読むだけで疲れてしまう。眠れないし、動悸はするし。血圧を測るとかは、かろうじてできましたが、外来だけで精いっぱい。病棟は免除してもらい、頻繁に早引けするようになりました。そのうち、家から病院まで自転車で5分の距離が、不安で1人になれなくなり、妻に車で送り迎えしてもらって。38とか39のいい男が1人になれない。今思えば、広場恐怖だったんでしょうね。

 これはいよいよダメだ、と思って精神科に駆け込んだのが、最初に目まいを覚えた日から2カ月後。さすがに自分が勤めている病院の精神科にかかるようになるとは思ってもみませんでした。

 精神科では「見事な鬱病。1カ月、自宅で安静にしなさい」と言われまして。でも、休めと言われても、休めないんです。緊張状態でリラックスできない。

 午前中は外来で診察して、午後は精神科を受診して。こんな生活、長く続けられるわけがないとは思いましたが、このサイクルを外れたら、一生外れてしまうような恐怖感がありました。これまでずっと、自分が設定した目標を達成し、次の、また次の、とやってきましたしね。それが壊れてしまうのも、とても怖かった。2人の息子も小さかったですし。とにかく「早く元に戻らなくちゃ」と焦りがあって。何度も戻ろうとして、戻れず、余計に具合が悪くなる…。悪循環でした。

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 翌春、国内留学していた同僚が戻ってきて「典型的なパニック障害じゃないか」と。パニック障害という言葉が広まり始めたころで、そんな病気があるのも知らなかった。ただ、こういう症状が起こりうるんだと分かり、安心しました。

 鬱病の人は「希死念慮」にとらわれる人が多いのですが、私もたびたび死を意識するようになりました。1人になると、焦燥感に駆られ、あの木の枝で首をくくれば楽になれるんじゃないかなんて考えてしまう。

 妻は私を1人にしないよう、随分気を使ったみたいです。外出の際は、夫が間違いを起こさないよう、家中の刃物を持ち出し、授業参観で留守にする日は、義母が車で1時間半のところから来て、私を見張ってました。そんな状態が3、4年続きました。

 あのころ、私が一番苦しんだのは、一家が崩壊してしまうという思いでした。このままではいずれ医者を続けられなくなる。物も書けない。妻と2人の息子がいるのに収入がなくなる、と考えるのが一番つらかった。でも、逆に息子たちがいるから勝手には死ねない、というのが最後の一線としてありました。この子たちが思春期を迎えるころ、親が自分で逝ってしまったら、とんでもない影響を残すだろうな、と。その一線で踏みとどまれたというか。結局、こうした状況が平成8年ごろまで続きました。

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【プロフィル】南木佳士

 なぎ・けいし 昭和26年生まれ。群馬県出身。内科医。平成元年「ダイヤモンドダスト」で芥川賞受賞。最新刊「トラや」(文芸春秋)は自身の闘病を、愛猫トラとの思い出を軸に描いた。「トラが生きてるときは、そんなにかわいがったわけではないんですが」(笑)。長野県佐久市在住。

(2008/04/24)