産経新聞社

ゆうゆうLife

元チェッカーズ・高杢禎彦さん(45)

(撮影・栗橋隆悦)


 ■子供のために手術を決心/がんに勇気を与えられる

 チェッカーズのメンバーとして一世を風靡(ふうび)し、解散後も独特の存在感でタレントとして活躍する高杢(たかもく)禎彦さん(45)を平成14年秋、胃がんが襲いました。一時は恐怖のあまり、逃げ出したい衝動に駆られたそうです。手術から6年。高杢さんは「がんは道しるべ。勇気を与えてくれた」と振り返ります。(文・永栄朋子)

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 僕のがんは、ワインじゃないけど「10年物」だと言われまして。30歳のときにはすでに腹の中にあったらしいんです。でも痛みもないし、まったく分からなかった。おかしいと思ったのは、40歳の春。飲み物がないと食べ物が通らなくなったんです。でも、ちょうどライブで思い切り歌を歌った後で、ポリープができたんだろうと。やせたのは、ダイエットが順調なんだとか、いい方に考えてしまって。

 夏にラーメンを食べてもどしたのがきっかけで病院を受診しました。吐くと普通なら気持ち悪いのに、すっきり感があった。痛くないのに吐いたし、怖いなと。

 なじみの診療所で胃カメラをのんだんですが、最初は余裕だったんですよ。先生もモニターを指して「ここに映るから」なんて。ところが、カメラが何かに引っかかった瞬間、先生が一生懸命モニターを隠そうとしたんです。ごつごつした岩のようなものがはっきりと映ってました。でも、それを見てもがんだと思わなかったんです。がんの家系なのに、自分だけは大丈夫だと信じてた。県立がんセンターを紹介されても、まだ、「がんじゃねぇだろう」と。だから、がんセンターで「決して初期ではありません」と、現実を突きつけられたときは、ショックでした。

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 臆病(おくびょう)だったのか、死が怖かったのか。その晩から眠れなくなりました。眠ったら、腹の中でがん細胞が増えて、朝、目が覚めないんじゃないかと恐怖心があって。

 ずっと仕事を最優先でやってきたのに、翌日のドラマ撮影のセリフが入らない。家族のことも考えられない。ただ「がんなんだ。がんなんだ」と、それだけ。逃げだそうとしたりね。一番逃げたいものからは、逃げきれないのに。

 そんなとき女房が「万が一のことがあったら、私も死ぬから」と言ったんです。当時、子供は11歳、9歳、2歳。子供のことは「実家に頼もう。2人分の保険金があるから、大丈夫よ」と。ハンマーで殴られた気分でしたね。「1人じゃないんだ。自分の肩にはこいつらが乗ってるじゃないか」とやっと気づいて、手術を受ける決心がつきました。

 恐怖心は消えません。だけど、照れなのか、思いと違う言葉が出てしまう。そんな気持ちを察し、女房が「交換日記をしよう」と。今思うと、気恥ずかしいんですが(笑)。「怖い」とか「眠れない」とか素直に書けました。ネガティブになる一方だった精神状態も、書いているうちにポジティブになって。救われた部分は大きかったです。

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 結局、がん宣告の1カ月後に手術しました。胃と胆嚢(たんのう)、脾臓(ひぞう)を全部、食道を半分取って、6年目になります。手術直後は息をするのも痛かったし、ささいなことでイライラしましたが、今はいたって元気(笑)。食べる量も1人前じゃ足りません。

 でも、気持ちはすごく変わりました。自分にとって何が大事なのか−。僕にとっては家族ですが、優先順位が明確になりました。仕事も昔は責任感でやっていましたが、今は僕が頑張ることで、たとえ1人か2人でも、同じ病気で苦しんでいる人やその家族に勇気や自信を与えられたらと。そんな使命感を感じます。

 手術から3年後、先生から「開けても8割方ダメだろうって意見が大半だった」と教えられました。主治医が「やってみなきゃ分からない」と半ばごり押しで手術してくださったそうです。それを聞きホント怖かったし、「生かされてる」と実感しました。がんで40年の人生観がすべて変わりました。生きてることを喜べたり、反対につらく思ったり。そうしたことを昔よりずっとリアルに感じます。がんは僕にとって道しるべというか、勇気を与えてくれたものというか。仮に再発しても、もう怖くはないですね。

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【プロフィル】高杢禎彦

 たかもく・よしひこ 昭和37年、福岡県生まれ。高校在学中にチェッカーズを結成。57年「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。チェッカーズ解散後はタレント活動。著書に「ガンが教えてくれた大切なもの」(新潮社)。Vシネマ「極道の紋章7」が近く発売予定。

(2008/05/09)