産経新聞社

ゆうゆうLife

エッセイスト・真島久美子さん(51)(上)


 ■母の介護が落ち着くと父にアルツの兆候が…

 エッセイストの真島久美子さん(51)は三十代半ばで、脳梗塞(こうそく)で倒れた母親の介護を始めます。ところが、母親が元気になるのと相前後して、介護にあたっていた父親にアルツハイマーの兆候が。当時は、アルツハイマーへの理解が今ほどでなかった時代。10年近く病気と気付かず、父親の暴言と奇行に振り回されながら両親の老いと向き合ってきました。(永栄朋子)

 「お母さんが倒れた」。平成5年夏、父からの電話に呆然(ぼうぜん)としました。脳梗塞だなんて、まだ62歳なのに…。実家に駆けつけると、母は幸い意識があり、うまく回らない口で「病院はいや」と言い張りました。昔、末っ子の出産で体を壊した母は、いくつもの病院を訪ね歩いてノイローゼと診断され、さらに苦労して産んだ子も失い、病院に不信感を持っていたのです。

 結局、入院はせず、私が1歳半の長女と泊まり込みました。食事作りや洗濯をはじめ、寝たきりの母の下の世話も。私は37歳でした。育児と介護が重なり、体力的に厳しいものがありました。夫が体を壊したこともあり、見かねた父が「家に帰りなさい」と。父と病気の母を2人にするのはためらいましたが、実家は車で30分。通い介護に切り替えたんです。

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 すでにリタイアしていた父は献身的でした。下の世話もいとわず、朝晩何千回も母の手足をマッサージ。母は半年後には起きあがって体操ができるまでに回復し、翌年には歩けるようになり、簡単な家事もできるようになりました。

 ところが、母が回復するにつれ、父がおかしくなったんです。仕事一筋できた父にとって、母の介護はまさに仕事でした。やることがなくなった上に、老夫婦の生活で、父は母の返事が遅いことや、見当違いの応答にイライラし出したんです。父はもともと気難しい人で現役時代は電話口で仕事先の人を怒鳴る姿をよく目にしました。

 母から「お父さんが、ご飯を食べない」とか「口をきいてくれない」といった、SOSの電話がかかるようになり、私は精神的ケアも含めて、子連れで週に2回、買い物や洗濯に通いました。

 同じころ、私たちが父の提案した同居話を断ったのも、様子を悪化させました。父は、私たちが母の介護を重荷に感じたのだと思いこみ、母に「お前のせいだ」と、激しくののしるようになりました。耐えかねて逃げる母を追いかけて怒鳴るのです。

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 そんな父も私には愛想よく、孫にもいいおじいちゃん。裏表のある態度が許せず、話しかけられても、無視したり。私にも実の親子という甘えがあったのでしょう。まさか、父がアルツハイマーだなんて思いもしなかったんです。10年以上前のことで、アルツハイマーも今ほど知られていませんでした。当時、分かっていれば、もっと違った対応ができたのにと悔やまれます。

 翌年、次女を里帰り出産しました。父を母と2人きりにしておくのも心配だったのです。そのときには、父はますます人とコミュニケーションが取れなくなっていて、たばこを買いに行く以外、ほとんど動かず、私や母とも口をききませんでした。

 次女が生まれて間もなく、長女が次女の上におもちゃを落としたんです。父は「何をするんだ」と怒鳴りだし、驚いた私たちが逃げると、リビングに閉じこもってしまいました。食事も拒否して出てきません。のぞくと、真っ暗な部屋で、つけっぱなしのテレビの前に座っていました。何日か後、何事もなかったように出てきましたが、以来、毎年春になると、菓子パンを大量に買い込んで、2カ月近くリビングに閉じこもるようになりました。

 ある日、実家に行ったら、母が手に包帯を巻いていました。父が怒鳴るので、私の家に逃げようとした拍子に転んで骨折したというのです。「(逃げようとしたから)罰が当たったんだね」と笑う母の姿がさびしくて。父の態度は虐待だと、母に離婚を勧めたこともあります。しかし、母は「子供を亡くして一番つらいとき、助けてくれたから」と、父を見捨てませんでした。

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【プロフィル】真島久美子

 ましま・くみこ 昭和31年生まれ。週刊「セブンティーン」で漫画家としてデビュー。筆者の体験に基づくお見合い成功法を書いた「お見合いの達人」(講談社)が話題となり、平成6年にドラマ化。近著「兄弟は他人の始まり 介護で壊れゆく家族」(同)。「介護は結局、人間関係に一番苦しむ」という。

(2008/06/05)