産経新聞社

ゆうゆうLife

左手のピアニスト・舘野泉さん(71)(上)


 ■前兆もなく脳出血に 絶望と希望繰り返し

 脳出血による右半身まひから、左手のピアニストとして復活を果たした舘野泉さん(71)。倒れた当初は、両手での復活が早いと信じていました。しかし、リハビリに励むものの、思うように回復は進まず、一時は絶望すら感じる日々だったといいます。(北村理)

 脳出血で倒れて6年あまり。今は整体に通い、降圧剤を服用する以外は、特に治療はしていません。まひしていた右手もようやく少し回復してきました。両手で演奏していたころがオリンピックレベルとすると、よちよち歩きの赤ちゃんのような回復ぶりですが。

 倒れたのは、演奏生活40周年リサイタルを終えた翌年。平成14年、フィンランド・タンペレでの年明け初コンサートでした。舞台で最後の曲を弾き終えようとしたとき、突然、右手が遅れだしました。自分の意識と次第に離れ、空回りして、やがて止まったんです。

 やむなく、左手だけで演奏を終えました。舞台の上で崩れ落ち、運び込まれた病院で、あと少し、出血場所がずれていたら、命はなかったと言われました。手術ができない場所で、自然治癒しかないとの診断でした。

 右半身が不自由になり、しばらくは言葉も出ず、記憶力も失っていました。倒れてしばらくは、時の移ろいも感じず、もうろうとしていました。1月のフィンランドは日照時間が短く、暗い。車の灯火が行き交うのを、病院の窓から身じろぎもせず追うのみで、まるで夢心地でした。

 今思えば、長年世界中を飛び回っていた疲労が蓄積していたんでしょう。それまで、3000回の公演、100の録音、出版もしてましたから。体の変調は感じませんでしたが、血圧は当時、180。後で「前兆を感じないのが一番怖い」と言われましたけど。それまでは健康で、病院にかかったことがなかったので、そもそも、体の変調に注意を払っていなかったかもしれません。

 倒れたのは、ちょうど演奏生活の区切りをつけたときでした。しかも、定年にあたる65歳。突然、体が動かなくなって途方にくれました。

 しかし、頭の中で何度、思い巡らせても、音楽しか生きる道がない。それで、再びピアノを弾こうと、猛然とリハビリに取り組みました。

 ほぼ1カ月で回復期の病棟に移されました。当時の日記を見ると、意外に暗い気持ちがつづられていないんです。

 日常生活の記憶は飛んでしまっていましたが、例えば、日記には音楽家の名前はたくさん書いていました。リハビリのノウハウを忘れないようにつけ始めた日記なので、リハビリによる日々の体の変化を楽しんで書いています。

 例えば、「いままでにないほど長い道のりを最初は歩行補助器を使い、その後はステッキで歩きました。後ろ向きにも歩いたし、最後にはなんの支えもなしで!」といった調子です。実はこのころは半年もすれば右手が回復し、また以前のようにピアノが演奏できると信じていたのです。

 倒れて2カ月後の日記には「ピアノはもちろん続けてやっていく。七月にはセヴラック音楽祭で演奏できるようにするつもりだし、秋には復帰できるのではないかなどと話しました」などとつづっています。この日記は、後に出版した「ひまわりの海」(求龍堂)にも盛り込みました。

 ところが、退院して自宅療養を始め、気持ちは一気に暗転しました。病院では順調に回復しているつもりでしたが、日常生活に戻ると、何もかも、以前のようにはいかない。思いのほか、体力が落ちていて、しゃがんだら、立ち上がれない。たかだか往復数百メートルなのに、買ったタマネギ数個が重くて歩けなくなるといった状況に愕然(がくぜん)としました。

 リハビリでは、医師によって「ピアノが弾けるようになる」と言われたり、「これ以上、回復は難しい」と言われたり。このころは、絶望と希望の繰り返しでした。

                   ◇

【プロフィル】舘野泉

 たての・いずみ 昭和11年、東京都生まれ。東京芸大ピアノ科卒業。39年からフィンランド在住。同国立音楽院シベリウスアカデミー教授などを歴任。平成14年、脳出血で倒れ、16年復帰。18年、左手演奏のための曲づくり募金「左手の文庫」を創設。病からの回復をつづった著書に「左手のコンチェルト」(佼成出版社)など。

(2008/08/07)