産経新聞社

ゆうゆうLife

左手のピアニスト・舘野泉さん(71)(下)

残された左手で、新しい音楽の世界を切り開いていきたいという舘野泉さん=東京都目黒区


 ■右手に頼らない可能性 心の糧に自分の音楽を

 脳出血で倒れたピアニストの舘野泉さん(71)は両手演奏へのこだわりを捨て、以前のように使える左手を最大限に生かすことを考えました。左手だけで演奏するピアニストは世界でもまれですが、従来の音楽ファンだけでなく、病に悩む聴衆も巻きこみ、新しい音楽の世界を開きつつあるようです。(北村理)

 右手の回復はなかなか進みませんでしたが、ピアニストとして復帰する転機は1年半後、突然訪れました。

 留学先から帰国した息子のヤンネが、左手演奏のための楽譜を持ってきてくれたのです。第一次世界大戦で右手を失ったピアニストのために書かれた曲です。

 倒れた直後にも、友人らから「左手の曲を弾いたらどうか」との提案はありました。しかし、ピアニストとしての復活を願ってというより、「右手が使えないならせめて左手でも」という慰めにしか聞こえず、受け入れられる心境ではありませんでした。

 しかし、その後、右手の復活を期したリハビリの成果もなかなか出ず、音楽に見放されるような気持ちが強くなっていました。ヤンネが楽譜を持ってきてくれたのは、いわば、音楽への飢えが最高潮に達していたとき。それで、素直に受け入れられたと思うのです。

 左手の曲は、実は若いころから弾いていました。そのころは、良い音楽を表現するには、手段は関係ないと考えていました。それが病を得て、復帰をあせるあまり、ピアノ演奏は両手があってこそと思い込んでいたのです。結果として、それが自分を苦しめていたのだと思います。

 右手に頼らなくてもいいんだと思った瞬間から、むしろ、新しい可能性にチャレンジできる喜びでいっぱいになりました。ヤンネが持ってきた左手のための曲を弾いたとき、左手だけでも十分な音楽が表現できると確信しました。そのことで、1年後の平成16年5月、左手のピアニストとして本格復帰を果たす道筋が見えたのです。

 そのときの心境は、暗い冬の北欧にようやく春が訪れ、湖をおおう厚い氷が割れ、その下から、水がみるみるあふれ、世界が一変するような情景に似たものでした。

 その後、左手演奏での復帰を目指したのですが、公演のためのプログラムを組むほど、左手のための曲を多く知っているわけではありません。そこで、友人の作曲家に、新たに左手のための曲を作ってもらうことを依頼しました。

 左手の曲といっても、演奏の負担は半分で済むものではありません。音楽のひとつの表現として完成させるわけです。作曲家も、私の演奏家としての個性を通じて、どう音楽を表現するかを考えるわけで、そこは妥協しません。左手しか使えない私のために、慰めで曲を作ってくれるわけではないのです。

 これまで両手でしていた鍵盤をたたく行為を、左手だけでするわけですから、姿勢に無理もあり、苦しいこともあります。しかし、始めると、それまで40年以上やってきた力が発揮でき、左手だけでプロとして聴衆に聴いてもらう環境づくりに成功したわけです。

 左手のピアニストとして復帰を果たし、各地で公演を始め、私のファンとは明らかに違うタイプの聴衆が増えていることに気付きました。自身や家族が病を負っている人たちです。彼らは、私が重い病を克服した姿を求めてきている。なかには、私と同じように左手しか使えない若いピアニストもいます。左手だけでは音楽大学に進学できないと悩む若者もいます。

 そうした姿をみたとき、私は彼らの希望の灯を絶やさないためにも、もっと左手のための曲を増やさなければいけないと思うようになりました。それで、曲を作ってもらう募金活動を始めました。それが「左手の文庫」です。

 多くの人に作品づくりに参加してもらい、それらの作品が書棚に並び、それをさまざまな人が手に取り、演奏してもらうイメージで名付けました。今秋には、募金でできた曲を披露するツアーが日本で始まります。

 私を病の暗いふちから救ってくれたのは音楽でした。ですから、私は左手による演奏という新しい音楽の世界を切り開くことで、今を生きる人、音楽を愛する人の心の糧となりたいと願っています。

                 ◇

 「左手の文庫」の問い合わせは、財団法人ジェスク音楽文化振興会(東京)内(電)03・3797・7698。

(2008/08/08)