産経新聞社

ゆうゆうLife

産科医・吉村正さん(76)

(撮影・北村理)


 ■医療だけの問題ではなくお産で日本の伝統維持を

 約40年にわたり、2万数千件に及ぶお産を取り上げてきた産科医の吉村正さん(76)。産科医不足など、お産の危機が問題視されるなか、吉村医師は「医療だけの問題ではなく、日本人の生活文化の問題として、お産について考え直す必要がある」と訴えます。(文、北村理)

 私はふだん、作務衣(さむえ)で生活しています。365日、24時間、ほぼ1人で妊婦さんをみてますから、いつでもどこでも、寝られるようにするためです。医院では、ほとんど医療行為をせず、妊婦さん自身の力で自然なお産ができるように介助するので、赤ちゃんが夜も昼もなく生まれるのです。

 私は大学院在学中の29歳で父の医院を継ぎましたが、当初は、ごく一般的な産科医として分娩(ぶんべん)をしていました。しかし、ある時、最新の分娩監視装置に囲まれた妊婦さんの表情がこわばっているのを目にしました。極度の緊張や不安はお産を妨げます。以来、妊婦さんにできるだけリラックスしてもらうにはどうしたらよいかと、自問自答の日々が続きました。

 今では、純和風の民家のような部屋で助産師さんが介助し、私はそれを見守りながら、何かあれば駆けつけるようにしています。

 もっとも、お産は何が起こるか分かりませんから、妊婦さんには事前にその覚悟を促し、そのときに備え、体力づくりには気をつけてもらっています。こうした分娩スタイルは、延べ2万人以上にのぼる妊婦さんとの対話から生まれたものです。

 特に印象に残っている妊婦さんがいます。その方は妊娠4カ月で、おなかの赤ちゃんは脳のない無脳児であることが分かっていました。医師も家族も中絶を勧めたのですが、その方は「子供の命を絶つことはできない」と、産むことを主張しました。どこの病院でも断られ、私の医院を訪ねてこられました。当院では赤ちゃんを産む母親の意志を尊重しますから、お引き受けしました。

 彼女はほかの妊婦さんと同様に体力づくりに精を出し、おなかの中で子供を育て、出産しました。赤ちゃんは元気に産声をあげ、母乳も口に含みました。しばらくして、自然と呼吸が止まり、亡くなりました。

 そこには、短かったけれど、確かに人の一生がありました。私は、その子に一生を全うさせようとした選択に、理屈を超えた母親の本能を感じました。

 出産をめぐる多くの生き死にとの出合いは、私の死生観にも大きな影響を与えました。

 三十数年、このような緊張した生活をしているものですから、健康にも影響します。60歳以降、十二指腸潰瘍(かいよう)からの出血で何度も倒れています。しかし、多くの出産に立ち会い、生と死を垣間見ているせいか、「死ぬときには死ぬ」と。十二指腸潰瘍も一度は治療を受けましたが、あとは食事療法など、自然に任せています。

 これから、どれだけのお産に立ち会えるか分かりませんが、今は、人の誕生と死にゆく人の看取(みと)りを同じ場所でできないかと考え始めています。

 去りゆく人は、生命の誕生を後につながるものとして希望を感じながら死を迎える。昔は一つの家で、人の誕生と死が同居していました。私は、それが人間の自然な営みだと考えています。

 医院の敷地には、江戸時代の古民家を移築し、妊婦さんたちはそこで体力作りや交流をかねて、まき割りやいろり端での食事などをします。自然と密接だった日本人の生活を再現しているのです。そうした自然への回帰が人間の本能を刺激し、お産を助けると思うのです。

 人の生活は、その地の伝統のなかではぐくまれるのが理想だと思います。これからも、日本の伝統を維持することに寄与できればと考えています。

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【プロフィル】吉村正

 よしむら・ただし 昭和7年、愛知県生まれ。名古屋大学医学部卒業。昭和36年から愛知県岡崎市の吉村医院院長。医療介入を極力行わない自然出産の介助を2万件以上実践。世界の出産を紹介した仏映画「プルミエール」(2008年日本上映)で紹介された。著書に「『幸せなお産』が日本を変える」(講談社+α新書)など。

(2008/10/24)