産経新聞社

ゆうゆうLife

女優、朝丘雪路さん(73)(下)

昭和59年上映の「女優」で、朝丘雪路さんと義兄の長門裕之さん。公演中に義母はなくなった。(朝丘雪路事務所提供)


 ■闘病支えた舞台への情熱 私も芸のために生きたい

 義母の恵美子さんを看取った女優の朝丘雪路さん(73)。恵美子さんは、日本映画の父といわれる映画監督、牧野省三の四女で、女優としても活躍していました。「闘病生活を支えたのは、舞台への情熱だった」と、朝丘さんは言います。(竹中文)

 義母は、かつて「マキノ智子」という芸名で活躍した女優でした。子育てに追われて仕事を辞めたけれど、どこかに続けたいという気持ちがあったようです。

 昭和58年夏に肺がんが分かった後も、私が家元を務める深水流の日本舞踊の踊りの会の舞台に「出たい」と言っていました。

 やりたい作品を聞くと、「鷺(さぎ)娘」なんて無茶を言う。激しい踊りが盛り込まれている作品なんです。でも、義母ができるように「鷺娘」をアレンジしました。まずは、タイトルから。義母は娘ではないから「鷺」よね(笑)。

 「鷺娘」では、白い衣装をぱっと引き抜いた後、あざやかな赤などの衣装になり、その後、激しく踊る場面があるのです。でも、「お義母さんの場合は、真っ黒の着物か、濃いグレーに梅をあしらった着物姿の色っぽい芸子に変わってはどうかしら。そうすれば、そんなに激しく動かなくても済むと思うわ」と提案しました。義母は少女のように夢見る目で「それも、ええなあ」と。

 でも、義母はそんなことで簡単にだまされるような女ではないんです。中途半端にうそがつけず、目の前で衣装を発注したこともありました。電話口で「年寄りが着る衣装」と言うと、機嫌が悪くなるので、言葉を選んで説明するのが大変でしたよ。「鷺」の踊りは、今も深水流に残っています。若くても年増を踊りたい方なんかに人気がありますね。

 翌年夏、肺がんが再発してからも、「脇役でいいから、出演させてくれんやろか」と言っていました。ちょうど、10月に東京の三越劇場で「女優」を上演することになっていました。「女優」は、夫の津川雅彦演出で、私と義兄の長門裕之が主演。だから、家族が後押ししてくれれば、チャンスがあると思っていたようです。

 私は、具合が悪くなったらいけないと、「雅彦さんが了承したら、出演してもいいわよ」と伝えました。夫が止めてくれると思ったんです。それなのに、夫はOKしてしまって。舞台で倒れたら、親戚(しんせき)に合わせる顔がない。慌てましたよ。夫もOKと言っておきながら、「おふくろが忘れるまで、舞台の話はするな」と言うので、家で舞台の話はしないようにしていました。でも、そんなことで忘れてはくれませんでしたけれど。

 「女優」の開幕が近づくと、義母は「マキノ智子」の名入りののれんやてぬぐいを作り始めました。体調が良いと「楽屋でお化粧をするときには、どんな座布団に座ろうか」なんて言うのです。

 あんまり期待させるのもと、私は相談に乗らないようにしていました。でも、何も言わないわけにもいかず、「座布団に名前を入れたら…」なんて言ってしまったこともあります。

 日常生活の方が、芝居ですよね。でも、そんな会話をしていたのは、舞台への情熱が義母の生きる支えだと分かっていたから。最初に肺がんが分かったときも、「肺がんの手術をすれば踊れるようになるわよ」と言ったら、嫌がっていた手術を受け入れたほど舞台が好きな方でしたから。

 「女優」の舞台げいこが始まる9月ごろには状態が悪化して、入院に切りかえていました。でも、誰も、「舞台に出さない」とは言いませんでした。

 舞台が始まったのが10月4日。「もう危ない」と言われていたけれど、私も義兄も最終日の26日まで舞台に出ました。義母も出ることを望んでいただろうと思ったのです。帰らぬ人になったのは20日。息を引き取ったのは「女優」の開幕時間でした。

 私も義母のように、最後まで「芸のために生きたい」と思っています。義母の情熱を肌身で感じていたから、仕事を続けながら介護ができたのかもしれません。

(2008/10/31)