「在宅介護か施設介護かで葛藤があった」と語る森永さん
■家族の情で在宅を選択 受ける側も覚悟が必要
父親の介護に頭を悩ます経済アナリストの森永卓郎さん。自身は、人生の最後で要介護状態になったら、「家族を煩わせたくない」と言います。親族での逡巡の末、家族介護に踏み切って感じたのは、介護する側同様に、介護を受ける側にも覚悟がいるということでした。(北村理)
父の介護経験から言うと、もし、自分が要介護の状態になったら、誰がなんといおうと、介護施設に入ろうと思いますね。
家族のなかに、介護の必要な人間が1人出ただけで、こんなに生活が変わってしまうのかと、今さらながらに痛感しているのです。
つい最近、父ががんと分かって入院するまで、父をわが家でみていたのですが、在宅介護を選択するまでには、少なからず葛藤(かっとう)がありました。
父が一昨年の末、脳出血で倒れた後、本人と弟を交えて、これからどう介護するかを相談したのです。父は半身まひで、当時、要介護4。食事はきざみ食で自分で取れますが、歩くのはつえをついてやっとという状態でした。
父は「家でも施設でもどちらでもいい」と言いました。弟の家は都心に近く、在宅介護をするだけのスペースがないこともあり、施設でケアしてもらうことを主張しました。
父より先に亡くなった私の母は介護の必要がなかったため、私たちはそれまで家族介護をしたことがありませんでした。ですから、「介護をする」ということが、実際にどういうことなのかは、よく分かりませんでしたね。
でも、私は長男だし、結局、最初から施設にお世話になるのもどうかなあ、という漠然とした“家族の情”のようなもので、在宅介護を選択したというのが実情です。
私の家は都心から離れた場所にあり、父の部屋は確保できたので、最低限のリフォームで、うちに引き取ることにしたのです。
実は、父の介護で苦労してくれている妻も、実家では父親が要介護状態なのです。母親が元気なので、最初は自宅介護をしていました。しかし、義母もうちの親と同年代で高齢だし、妻の兄夫婦は共働きですから、義父は今は施設にお世話になっています。
介護というのは、家族や本人の状態によってケース・バイ・ケースで、その都度判断が求められます。これでいいという答えはないと、つくづく感じます。
私の家はたまたま、子供が自立しつつある時期だったので、まだましですが、同級生のなかには、子育ても介護も抱える家庭はあります。そうなると、なおさら大変なのは想像に難くありませんね。
父をわが家で介護して思うのは、介護する側にも覚悟がいりますが、介護を受ける側にも覚悟がいるということです。
父の場合、介護そのものの大変さに加え、父の性格が介護する側に負担になっている面も否めないのです。父はこれまで、何でも自分で決め、思ったことを断固として実行する人でした。何かにつけ、自分で決めたことを実現しないと、我慢ができないのです。
風呂で気を失って、家族がさんざん苦労したときも、もとは父が「自分で風呂に入れる」と言い張るので、言う通りにした結果でした。しかし、本人は後で大騒ぎになったことは全く記憶にないんです。
とにかく、妻をはじめ、介護してくれる人の言うことをきかない。今も、自分で歩けるつもりでいるし、食事も不自由なのに、自分で食べたがる。人の介助は受けたがらないんです。
看護師さんが来てくれても、気にいらないと、あっちの看護師を呼んでこいなんて、平気で口にするのです。
ですから、妻は平身低頭して、看護師さんに頭を下げるということを、続けていたらしいのです。
父の介護で苦労しながら、妻が父を施設へ入れるのに反対したのは、こうした父のわがままを、施設がどこまで聞き入れてくれるのか、という不安もあったようです。
最後まで体が動いて、何でも自分でできるならいいですが、70歳を過ぎて、要介護の生活であれば、「はい、ありがとうございます」と手をあわせて、いろいろな人にお世話になるという気持ちが必要だと思います。
日本は世界でもトップクラスの長寿国です。ですが、寿命が延びれば、老後も長くなり、不健康な期間も長くなります。
父を施設に入れようかと思い、あれこれ調べてみましたが、特別養護老人ホームはいっぱいだし、民間のケア付きマンションは入居金に5000万円もかかったり、月の費用が30万円もかかったりするところが多いようです。
私も、今のワーキングプアといわれる若者も、とうてい安心して老後を過ごせる状況ではないでしょう。なんとか、最後まで豊かに、楽しく暮らせる社会であってほしいと願うのですが。
(2008/11/28)