産経新聞社

ゆうゆうLife

元マラソンランナー、松野明美さん(40)


 ■ダウン症と心臓病の次男に「勝たなくていい」と学んだ

 1秒でも速く走ることを目標にしてきたけれど、ゆっくり歩む人生もまた、すばらしい−。女子マラソンで活躍した松野明美さん(40)。5年前に出産した次男は重い心臓病とダウン症を抱えていました。手術を乗り越え、必死に生きるわが子の姿に、多くを学んだという松野さんに、5年間の子育てを振り返ってもらいました。(文 篠原那美)

 小さくて、黒いなぁ…。生まれたばかりのわが子を見たときは、そんな印象でした。産声もか細く、ひと泣きしただけ。胸に抱きたかったけど、すぐに新生児集中治療室(NICU)へ入ることになりました。

 数時間後、先生から「重い心臓病がある」と説明を受けました。そう言われても、何がなんだか分からない。まさか、うちの子が心臓病なんて、これから先、どう育てていけばいいの…。不安で不安で仕方がありませんでした。

 実は生まれる前から、疑いがなかったわけではありません。妊娠8カ月の超音波検査で、先生からこう言われました。「3本あるはずのへその緒が2本しか見えません。こういう場合、心臓に疾患がある可能性が高い」と。

 びっくりしましたが、とにかく元気に生まれてきて、と祈るばかりでした。

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 「心内膜症欠損症」と「ファロー四徴症」。次男は心臓に2つの病気を抱えていました。心臓は4つの部屋に分かれていますが、次男のは、仕切りが不完全で真ん中に空洞がある状態。酸素を多く含むきれいな血液と、二酸化炭素を多く含む血液が混じるので、体内の血中酸素濃度が低くなってしまいます。

 5カ月後、ようやく家に連れ帰れましたが、心臓手術を終えたわけではないので、唇は常に紫色、チアノーゼの症状は消えません。酸素ボンベが手放せませんでした。うまく呼吸できないから、泣くこともできない。いつも肩でハアハアと息をする。抵抗力が弱く、風邪をひけば高熱が出る…。1歳になるまでは、夫も私も、熟睡できる夜なんてほとんどありませんでした。

 転機は次男が2歳半になったころ。心臓も大きくなり、手術を受けることに。7時間に及ぶ大手術。それまで味わったことのない長い、長い時間でした。手術室の扉が開き、対面したときの次男の顔は、今も忘れられません。ピンク色をしていたんです。黒い顔、紫の唇…。そんなわが子しか知らなかったのに。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいでした。

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 手術の成功で酸素ボンベなしで生活できるようになりました。実はそれまで、次男がボンベをつけた姿を見られたくないという気持ちが、私にはありました。顔も黒く、鼻からチューブをし、ダウン症でもある。そんな次男を隠そうとばかりしてきたのです。

 だけど、手術後、「隠さなくてもいいんじゃないか。公表していいんじゃないか」と思えるようになりました。ダウン症の子は成長が遅いので、歩き出したのも3歳半。体は小さく、今も見た目は2歳くらい。言葉もなかなか話しません。もどかしい気持ちもありますが、病気の時でも、体はつらいはずなのに、親の前では、にこっと笑ってくれる。天使のように、優しい子なんです。

 私は勝負の世界に生きてきましたから、勝たなければ「人生負け」というか、勝って認められるものだと思ってきました。でも、次男を生み、価値観が大きく変わりましたね。最後にゴールしても、その人なりにがんばることが、すばらしいんだと。

 正直に話せば、産まなければよかったと思ったことも、何百回とありました。

 でも、今は違います。お金では決して得られない、大切なことを、次男から教えてもらったと思っています。

 公表して、多くの方からメールや手紙を頂きました。ダウン症の子供を持つお母さんから、「つらかった時期もあったけど、今では笑顔で『松野さんのお子さんと同じ、ダウン症なんですよ』といえるようになりました」という手紙をもらい、私も励まされました。これからも、いろんな人々と交流し、私なりに、何か役に立てる活動ができればいいな、と思っています。

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【プロフィル】松野明美

 まつの・あけみ 昭和63年のソウル五輪女子一万メートルで日本新記録。平成4年の大阪国際女子マラソン、5年の名古屋国際女子マラソンでいずれも2位。7年に現役引退後、後進の指導、講演など。公式ホームページはhttp://www.appeal−net.com/matsuno/

(2008/12/19)