■妻の真屋順子さん倒れ、左半身麻痺でリハビリ
■「ありのまま」を大切に
「欽ちゃん(萩本欽一さん)の奥さん」として人気を博した女優、真屋順子さんは脳出血による左半身麻痺(まひ)で車椅子(いす)生活を送っています。支えるのは、夫で俳優の高津住男さん(71)。平成12年末から手探りで介護を続けてきた高津さんは「ありのままでいい」と話しました。(聞き手 柳原一哉)
妻も私も俳優人生の集大成として、歌舞伎の創始者である女性を扱った「出雲の阿国(おくに)」を公演するのを夢にしていました。その念願の公演が12年に始まりました。
それより少し前から、妻の実母が老衰で体力が落ちて寝込むようになり、軽い認知症も出てきていた。主に妻が、介護で24時間走り回る毎日でした。
妻は当時のことを、「昼間仕事でくたくたに疲れて帰ってきて、夜もろくに眠れないから、心身ともに限界。あのままなら私も倒れてしまうほどだった」と振り返っています。
思い返せば、妻は「疲れた」とよくこぼしていたのを私は聞いていました…。
その実母を亡くして3カ月後の12年12月23日。静岡県で開かれた音楽会で司会を務めていた妻が倒れたのです。救急車で運ばれ、集中治療室で治療を受けましたが、意識不明。連絡を受けて東京から駆けつけた私も「だめかもしれない」と思いました。それから4日半、管が7本もつながれている妻を前に、意識が戻るのを待ち続けました。
病院から「帰ってもいい」といわれたものの、気が気でないので帰宅できず、病院で椅子を並べて睡眠をとり、風呂に入れないので体を水ぶきして過ごしました。
5日目、妻は「夢の中で阿国に『起きなさい』としかられ、目が覚めた」と、意識を取り戻しました。本当によかったと思いました。
後に転院した東京都の病院で、そのときの夢の様子を見せたいと、クレヨンと画用紙をせがみ、絵に描いてくれました。つたない絵ですけれど、取り繕うことなく、伝えたいことを伝えようとする姿勢に感動しました。今でもその絵を大事にとってあるんですよ。
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一命はとりとめたものの、左半身麻痺という後遺症が出ました。妻は女優で、日本舞踊の名取でもあります。それなのに左手足が不自由になり、口の端から飲み物をこぼすようになってしまった。
左半身の感覚がないというのです。あるとき、妻が「私の左手はどこ?」と尋ねました。ぎょっとして驚きながら、左手を持ちあげてここだというと、妻は「『あら、ここに(手が)あったの』という感じだ」といっていました。
ただ、幸いだったのは、失語症にならなかったこと。妻も「とても運が良かった。言葉は女優として最後のとりでだから」と言っていましたね。
16年に軽い脳梗塞(こうそく)になったときも、ろれつがまわらないなどの影響が出ましたが、それも少しで済みました。
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望みをつないだのは、リハビリでした。車椅子からベッドに移る、腕を上げ下げする、階段を上り下りする−という単調な運動の連続。
しかし、続けても続けても、なかなか良くなならない。妻は「いったいいつ治るの?」と、私に詰め寄ることもありました。料理好きなのに、包丁を扱いづらく、カッとしてタマネギを投げたこともありましたしね。それぐらい、つらかったのでしょう。途中で料理をやめてしまったことも何度もありました。
リハビリに力を入れるきっかけになったのは、病院のリハビリ室で会った80代のおばあさんの存在でした。
その方は、妻が欽ちゃんのテレビ番組に出ていたことを覚えていて、妻の一生懸命な姿を見て自分もリハビリに取り組むようになったというのです。
妻は、知らないところで自分のことをずっと見ていてくれた人がいたと知って、勇気が出たようです。再び、『出雲の阿国』の舞台に立ちたいと希望を持つようになりましたから。
希望が実現したのは15年1月。完全に身体機能が回復したわけではなく、車椅子を手放せないことに変わりはありません。でも、ありのままでいいんじゃないのか、と。そんな気持ちで車椅子のまま出させていただいたのです。
「ありのまま」。私も妻もこの言葉を大切にするようになりました。
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【プロフィル】高津住男
たかつ・すみお 俳優、演出家。昭和11年生まれ、71歳。「劇団樹間舎」主宰。妻で女優の真屋順子さん(65)はテレビ番組「欽ちゃんのどこまでやるの」で一躍、お茶の間の人気者になったが、平成12年に脳出血、16年に脳梗塞(こうそく)に倒れた。その介護、リハビリなどを支える。25、26日に東京都世田谷区の北沢タウンホールで「人形師 忠三郎 千夜一夜−出雲阿国 蝶に噛まれる」を公演。真屋さんも出演する(問い合わせは前日まで(電)03・3964・3939)。
(2007/07/19)