□今川真紀子さん(34)
■就職で踏み出した復帰/不安と隣り合わせでも/生命を引き継いだ喜び
英国滞在中に原因不明の急性劇症肝炎に倒れ、1996年、脳死肝移植を受けた今川真紀子さん。昨年、長男、駈(かける)くん(1)を出産しました。今年7月からは臓器移植への理解を訴える公共広告機構のコマーシャルに実名で登場しています。(聞き手 佐藤好美)
ようやく普通の生活ができるようになったのは、手術から半年近くたったころでしょうか。9カ月後に帰国し、月1回、通院しながらの生活ですが、日本で仕事も見つかりました。
もともと普通にできたことが、一時は何もできなくなり、社会復帰できないんじゃないかと思っていましたから、就職できたのは、すごくうれしかった。通勤電車に乗るのも、朝、会社に行って「おはようございます」と言うだけでうれしい。
就職したのは、結婚も子供も無理だと思っていたから。薬代くらい、自分で払おうという気持ちもありました。今は月に4万円くらいですが、当時は10万円くらい払っていましたから。
そもそも、こんなに医療費がかかるのに、企業が採用してくれるのか、社会が受け入れてくれるのか不安でした。結婚だって、月に1回は病院通いだし、何もしなくても月に10万円必要で、体調を崩せば働けないし、稼げない。OKと言ってもらえるなんて思えなかった。年を取るごとに、生きるリスクは増えますし。
帰国した年、日本で臓器移植法が通りました。当時は移植に否定的な雰囲気も強く、「人が死ぬのを待ってまで生きる必要があるのか」と言われたこともあります。私が誰かと恋愛関係になることがあっても、相手の両親や親族は許してくれないだろうと思っていました。
夫は就職先の同期。私が移植を受けたことを知って、彼は費用を払えるか、結婚して体調が悪くなってもやっていけるか、子供を持てないかもと悩んだそうです。
結局、その後、再渡英した時期を挟んで、7〜8年つきあって結婚しました。
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子供はすごく欲しかった。めいがかわいくて、こんな子がいたら幸せだろうなって。主治医からは「副作用を心配しなくてもいいけれど、妊娠は、薬の量を調節しながらにしましょう」と言われていたのですが、調節しないうちに妊娠して。
それでも、薬の影響がどう出るかは分からない。障害のある子が生まれてくるかもしれないけれど、受け入れて2人で育てていこうと、夫と話しました。
父は出産に反対しました。「妊娠、出産に耐えられるのか。孫か娘かどっちを取るかといわれたら、娘を取る」って。現実に体調の悪い私を目の当たりにすると、このままいなくなってしまうのではないかと恐れたようです。「私の命と引き換えにしても産む」と、説得しました。
妊娠中はずっと体調が悪かったです。熱があるし、しょっちゅうゲホゲホとせきが出て寝られないし、薬は減らすはずが、増えちゃうし。通常分娩(ぶんべん)の予定でしたが、3日間陣痛に苦しんで、結局、帝王切開でした。
子供は今のところ薬の影響もなく、順調に育っています。母乳は当初から「あげられませんよ」と言われていて、初乳もあげられませんでした。
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私自身は移植するまで病気知らずでしたが、今は風邪をひきやすいし、1年の半分くらいは寝込んでいます。めいっぱい元気でいたいし、そういう時もあるけれど、実際には明日どうなるか分からない。せきが出始め、熱が出て、体調が急に悪くなると、先が見えません。
移植後に調べたら、ちょっと古いデータだったようですが、肝移植後に10年生存している人は30%に満たなかった。今はもっと伸びていますが、当時の医療とすれば、私はもう30%の方に入っているのかも。「移植から11年も来たから安心」とも、「もう、11年も経ってしまった」と思うこともあります。
でも、根本的に楽観的なので、自分は絶対に大丈夫と信じているんです。信じると、人って強くなれる。そして、精一杯に頑張るところから次が生まれると思うんです。
病院で、ドナーは英国人の中年男性で、「肝臓を2つに分けて、マキコと小さな男の子に行ったんだよ」と聞きました。
あのとき、自分が助かって命を引き継ぎ、駈にまで命を継ぐことができた。その人の命が、1つだけじゃなくて、いくつかの命につながって行くのって、素晴らしいことじゃないかと思います。
今は夫もドナーカードを持ってくれています。日本では脳死臓器提供は58例。移植を受けても、公にしない人が多いと聞きました。でも、何でもない1人の人間が移植を受けて、結婚して、出産までできたことが、誰かを元気づけたり、勇気づけたりできるなら、それは、私のできる唯一のこと。それで移植医療に理解が深まるなら、どうぞ、この体験を実名で伝えてくださいという気持ちです。
(2007/08/23)