大山実 撮影
ダンディーな山下勉さん(58)=仮名=の膵臓(すいぞう)がんの病状が深刻になってきた。腸閉塞(へいそく)の傾向があって、食事はなるべく柔らかいものに限られて味気なく、本人も不満そうだった。
意地悪な主治医の私は、診察の合間に「今、何が食べたいですか?」と聞くと、本人は間髪を置かず「天ぷら!」と返答した。
奥さんが「天ぷらは駄目ですよね?」と心配そうに私の顔をのぞく。「駄目ですね」と私の冷たい返事。
次の往診時にも同じことを聞くと、「うまい天ぷら」と山下さんはあきらめず答える。
「うまい?」
「私が天ぷらが下手で。自分で食べてもまずいなーと思うくらい」と奥さん。
正直でかわいい奥さんだ。山下さんの病状は予断を許さず、いつ昏睡(こんすい)状態になってもおかしくない。
「料理人の友人が、八ケ岳の麓にいます。私も付いていくので、行きますか?」
「行く!」と本人が声を上げて決まり。
重症の人には、今という時間しかないから、すぐ実行に移した。大学生の息子がお父さんを抱きかかえて車で移動。
八ケ岳で友人に頼んだ。「生きていてよかった、と思える天ぷらを揚げてください」(何という厳しい注文だろう)
友人はまず、野辺山の初採りの立派なアスパラガスの天ぷらを出してくれた。山下さんの目が見開かれた。
「ゆっくりね」と心配そうな奥さんを無視してパクパク食べた。
「うまい!」
その声が皆の胸に届いた。たくさん食べて満足し、畳の上にゴロッと横になり、山下さんはスヤスヤと寝始めた。出来過ぎた話だが、ちょうどその時、料理の修業にそこに滞在していたシスターが近づいてきた。「大切な時間をお過ごしですね。祈りをささげてよろしいですか?」
皆で山下さんを囲み、手をつないで祈りをささげた。こうして八ケ岳のそば屋がそのときだけホスピスの空間になった。
そんなことも知らず、すっきりと目覚めた山下さんは、お尻の財布をポンとたたいて言った。「うまかった。今日はおれのおごりだ」(内藤いづみ 在宅ホスピス医)
(2008/10/29)