産経新聞社

ゆうゆうLife

最期のときを家族と 家でしかできないこと

大山実 撮影


 秋になると思いだす患者さんがいる。松下靖さん(59)=仮名=はある日、私の外来を奥さんとやっとのことで訪ねてくれた。皮膚の黄色味が増し、黄疸(おうだん)があった。顔もげっそりしていたが、どこか飄々(ひょうひょう)と面白そうな方だった。

 「肝臓が悪いんです。入退院を繰り返し、治療してきました。強い副作用もありましたが、病気と共存するために頑張ってきたんです。でも、どうやら治療も限界らしい。僕は早めに病院治療にきりをつけたいんです」とさっぱりした顔で言う。

 「本当に治療に未練はないんですか?」

 「ない、ない」と本人が断言した。横に座る奥さんも、にっこり相づちを打つ。積極的治療からホスピスケアへの移行を悩みに悩む患者さんと付き合うことが多い私も拍子抜けだ。

 「先生、僕には家でしかできない3つのことがあるんだよ。ひとつ、好きなジャズを、好きなときに良い音で聞くこと。ふたつ、マージャンをする。家にはマージャン室があって、お見舞いのお客さんと卓を囲める。みっつ、競馬!」

 「家で競馬を?」

 「そう。テレビで全国の馬場を見て賭けられる。週末は忙しいから往診は避けてください」

 なるほど。この3つを病院ですることは難しい。奥さんが口を挟んだ。

 「あなた、3つだけ?」

 「うん? あっそうだ。家族、妻とずっと一緒に居ること。4つです」

 奥さんがうれしそうに笑った。

 在宅ホスピスケアを開始すると、松下さんは4つを実行に移し始めた。家族でマージャンをした夜もあったようだ。

 しかし、病状は少しずつ進行し、横になる時間が増えてきた。だるさが増すと「もう、早く楽になりたいなぁ」と口に出すこともあった。

 「あなた、私はもう少しふたりでいたいのよ。早く楽になんてならないで」。その言葉に松下さんは深くうなずいた。松下さんは奥さんの肩に後ろから両手を置き、ゆっくりと、ふたりで仲良くトイレへ通った。

 やがて最期の時が訪れた。それは競馬の菊花賞の日。奥さんは「あの人の魂はとっくに馬場です」と言った。逝く人は「葬式の音楽はコルトレーンにしろ」と言い残し、馬券も指示したらしい。後日、「大穴を当てたんです」と奥さんが教えてくれた。(内藤いづみ 在宅ホスピス医)

(2008/12/17)