産経新聞社

ゆうゆうLife

最期のときを家族と 大切なことは何ですか?

大山実撮影


 進行がんという、人生の危機にある人を支えるには、ご本人の大問題を優先的に解決することにつきる。痛みを訴える人は多く、未来の不安、家族の心配、死の恐怖をもらす方も。医者として知恵を総動員し、痛みを緩和する。一番の問題が落ち着いたら、聞く。「あなたにとって大切なことは何ですか?」

 木下一夫さん(当時75)=仮名=は肺がんが骨に転移して痛みが増し、ほぼ終日、寝て暮らしていた。10年くらい前の日本では、がんの痛みへの対策が、あまりなされていなかった。

 在宅医療を開始し、工夫して鎮痛薬を投与したところ、痛みが小さくなり、往診では座って一緒にお茶を飲むまでに回復した。大農家の和室は広く、緑の風が通る。家族も穏やかな木下さんを見て、ほっとした様子。私はやっと、その質問をした。「体も落ち着いてきましたね。今、何をしたいですか?」

 木下さんは驚き、そして少年のようなはにかんだ笑顔を見せた。「また何かできるなんて、寝付いてから考えてこなかったから。もし、できるなら、イネの様子を見に行きたい。ずっとそれどころではなかったので。ワシは60年もずっと百姓一筋で生きてきました。田んぼのあぜ道に立ちたい。もう一度」

 「できますよ」「本当ですか?」「大丈夫。初回は私も付き添います。自慢の田んぼを見せてください」

 日時を決めて訪問すると、木下さんは麦わら帽子に作業着できりりと現れた。姉さんかぶりの奥さんも付き添う。見渡す限りの田んぼに着くと、イネが揺れていた。「まずまずのできあがりだ」と木下さんがつぶやく。奥さんもうれしそうだ。

 在宅ケアで家族と病人の心はひとつだと学んだ。病人が苦しいと、家族も苦しむ。病人の喜びは家族の喜び。苦しむ病人を抱える在宅ケアは、困難を極める。

 「今日はうれしかった」と木下さんは言った。「また来たらどうですか」「え!? いいんですか?」「もちろん。調子の良い時に」

 奥さんとほほ笑んだ姿を今も思いだす。長年続けてきた仕事を、いつものように平凡に続けること。それが一番の幸せだと木下さんは教えてくださった。

 木下さんは以後、息子さんたちの監督も兼ね、しばしば田んぼに通ったそうだ。稲刈りが終わり、秋も深まるころ、木下さんは亡くなった。頂いた新米を味わいながら、あぜ道に立った木下さんの幸せそうな顔を思いだした。(内藤いづみ 在宅ホスピス医)

(2009/02/11)