産経新聞社

ゆうゆうLife

病と生きる 講談師、紅雲亭飛僧さん(87)


 ■訓練で言語障害乗り越え 人生も“軟着陸”を目指し

 陸軍や日本航空のパイロットだった塚越朝紀(つかごし・ともき)さん(87)は、くも膜下出血による言語障害を、人前で話す訓練で乗り越え、講談師、紅雲亭飛僧(こううんてい・とぶぞー)として、各地のボランティア施設で活躍しています。「人間の体は、260万個の部品からなる飛行機と同じ。毎日、何かしらのトラブルは起きる。工夫しながら飛んでいくもの」と話しています。(北村理)

 芸名の「雲」は、くも膜下の「くも」です。

 パイロット引退後、講談師として生きるきっかけを与えてくれた病と、これからの生涯をともにするという決意でもあるのです。

 私が病を得たのは72歳の平成5年9月。入浴中でした。湯が熱かったので、湯船のへりに腰掛けていました。その状態で、ふーっと意識を失い、洗い場に倒れたのです。30分ばかり気を失っていたようですが、まさか脳の病気とは思いませんでした。

 当時、確かに血圧は高かったのですが、思いあたるのは倒れる1週間前、釣りをしていて手が震えたことぐらい。

 病院へ行ったのも、転倒して頭を打ったのでは、という程度の認識しかなく、翌朝、バスで病院に行きました。そしたら、くも膜下出血だといわれ、即入院。その日のうちに開頭手術を受けました。主治医には「なぜ救急車で来なかった」と驚かれましたが。

 出血が比較的少なく、手術はそう手間がかからなかったようですが、後遺症で言葉が出なくなってしまった。

 2週間で退院しましたが、リハビリの説明も特になく、「このまま人前に出られず、人生が終わってしまうのか」と、一時は鬱々(うつうつ)としました。

 ところが、ある日、偶然知り合った医師に「しゃべる訓練をとことんすればいい。本を読んで要約し、それを10分間で他人にしゃべる練習をしてごらん」といわれ、それからは毎日、本とにらめっこ。要約できるまで読み込み、10分間で他人に理解してもらえる構成を考え、原稿用紙4−5枚にまとめる、といった作業を繰り返しました。

 なんとか、2週間ほどで話をまとめられるようになり、地元の老人会などに話す場所を求めました。

 以降、週1回のペースで発表し、喜ばれたので、手品や講談にも挑戦しました。はじめはしどろもどろでしたが、3カ月ほどで拍手が出るように。2年ほどで言語障害はおさまったように思えます。

 こうしたリハビリ体験が高じ、聞いて頂ける人にもっと楽しんでほしいと、8年ほど前、知人の娘さんで、講談師の神田紅(くれない)さんの門を叩いたのです。

 以来、月1回、ボランティアで全国の施設巡りをしていますが、印象に残った出来事があります。重度の障害者施設を訪問したら、拍手はないけれど、面白い時には目の表情で分かる。体に損傷は受けても、どこかで生きる機能は残っている。

 思い返せば、パイロット時代、一度飛んだら、何があっても機体を無事に着地させることを考えていました。260万個の部品からなる飛行機は、毎日どの部品も万全ということはなかなか難しい。人の体も同じだと思います。旅客機では、客室でも何かしらトラブルは起きる。毎日、何か工夫しながら飛んでいました。

 くも膜下出血で言語障害になったとき、自分なりに工夫して障害を乗り越えられたのも、こうした現役時代の習い性が身に付いていたからだとも思えるのです。

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【プロフィル】紅雲亭飛僧

 こううんてい・とぶぞー 大正10年、台北生まれ。陸軍士官学校、飛行学校をへて特攻作戦に参加。昭和29年、日本航空に入社し、34機種を操縦。平成5年にくも膜下出血を発病。言語障害克服のため講談を始め、現在は施設でのボランティアを中心に活動。創作の特攻悲話を披露する。

(2009/03/13)