産経新聞社

ゆうゆうLife

老いと生きる バイオリニスト・黒沼ユリ子さん(68)


 ■母、90歳でメキシコに スローな日々を満喫

 バイオリニスト、黒沼ユリ子さん(68)は約10年前、自身が住むメキシコに、90歳の母、マサさんを呼び寄せました。高齢での海外移住に周囲は猛反対でしたが、メキシコでのマサさんは大勢で食卓を囲み、昔ながらの野菜の味に感動し、すっかり元気になったといいます。メキシコのスローライフは、日々の楽しみに満ちていました。(佐藤好美)

 10年ほど前、姉が結婚することになったので、同居していた母に「よかったら、メキシコで一緒に暮らしましょう」と誘ったんです。

 母は90歳。日本では、外は自転車が走るし、庭で草むしり中にけがをしたこともあり、とにかく「危ないから」と屋内での生活。姉は音楽関係の仕事で帰りが遅いので、昼間はひとり。友達もだんだん亡くなって電話する相手もなく寂しかったようです。

 メキシコに来たら、とても元気になりました。母は歩行器を使っていましたので、庭の石畳を、すき間に落ちないようテラコッタにしたんです。そこを、歩行器でちょんちょんと歩いてました。犬、鶏、七面鳥、アヒル、クジャクもいて退屈しなかったみたい。クジャクが羽を開くのを待って「わあ、開いた開いた」なんて、まるでチューリップの花が開くみたいに楽しんでいました。

 メキシコでは子供のいる家庭は別として、われわれ世代は朝9時半ごろと、夜4時半ごろの2食をゆっくり食べます。母もメキシコでは日に2食。私たち夫婦と、住み込みの庭師夫妻も交えた食事だから、パジャマで出てこられない。朝、シャワーを浴びて、身繕いして食卓につきます。

 日本では、昼間1人だと、好きな時間に起きて、着替えもせず食事をしがちでしょう。食欲が出たのは、着替えて定時に食べるリズムができたからだと思います。母は真っ白だった髪に、だんだん黒い毛が出てきたんですよ。

 食後は料理の手伝い。庭でいすに座り、そら豆やグリーンピースをさやから出したり、じゃがいもの皮をむいたり。年ですから、むいた皮が厚いんですが、「きざんで鶏にやれば、おいしい卵になって返ってくるんだから、いいじゃない」なんて言っていました。

 野菜の味にも感動したようです。明治生まれの母は庭で作ったキュウリやトマトをもいで、井戸水で冷やして食べた人。メキシコでは、野菜は完熟を収穫します。「トマトもキュウリも昔の味がする」と。

 「2000年まで生きる」と言っていた通り、2000年1月1日に92歳で亡くなりました。前日の大みそか、ワインを少し飲んで七面鳥を食べて、9時ごろ「お先に失礼しますね」と。翌朝も少し食べ、いつも通りで。私たち夫婦は隣村へ出かけたんです。帰ったら、庭師さんが「大変、大変、さっき、おばあちゃんが息を引き取った」って。母は眠るようにベッドにいました。

 最期は庭師夫妻とその息子に看取られて。コーラを飲んで「おいしい」と。教会の新年のミサが、スピーカーから町に流れて、ハレルヤを歌う声が聞こえる中、母も「ハレルヤ」って亡くなったそうです。そのときのことを思うと、胸がつまりますね。

 今、庭に家を建てているんです。姉が住むというので。姉が未亡人になったとき「90歳まで待たずにいらっしゃいよ」と言ったんです。建築監督は私。レンガを毎日、1つ1つ積んでいくから、「あの山が見える位置に窓を」とか「この部屋はもっと小さく」とか指示して。でも、だいたい当初のイメージ通りになるんですよ。不思議ですね。

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【プロフィル】黒沼ユリ子

 1940年、東京生まれ。18歳で渡欧、プラハ音楽芸術アカデミーを卒業。70年代からメキシコに住み、演奏活動を続ける。80年、メキシコシティに弦楽器の音楽院「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を開校。同校は今年5月、メキシコ大使館と共催で「メキシコ音楽祭2009」を開く。5月5日、千葉市の京葉銀行文化プラザ音楽ホール、8日、東京・紀尾井ホール。問い合わせはアーツアイランド(電)03−3205−2032

(2009/04/03)