産経新聞社

ゆうゆうLife

病と生きる 父、作家 北杜夫さん(81)


 □娘、エッセイスト 斎藤由香さん(47)

 ■鬱を広め世の中に“貢献” 寛大な家族に助けられた

 「どくとるマンボウ航海記」などで知られる作家、北杜夫さん(81)は40歳ごろから、躁(そう)状態と鬱(うつ)状態を繰り返す躁鬱病にかかりました。病とつきあいながら執筆活動を続けられた秘訣(ひけつ)とは。今日は北さん自身、明日は娘でエッセイストの斎藤由香さん(47)の話から、悲喜こもごもの日々を振り返ります。(文 佐久間修志)

 発症したのは40歳。娘が小学1年のころでした。以後、夏は精神が高揚する躁病、冬は気持ちが沈む鬱病というサイクルを繰り返すようになりました。

 鬱のときは夕方まで寝て、夕食になると起きる冬眠みたいな生活でしたが、躁のときは、いろんなことをしでかして家族に迷惑をかけました。発症まで言葉遣いは丁寧だったのですが、急に「野郎、てめえ!」とか口に出すようになり、家族はびっくりしたみたいですね。

 「映画を作るから」と、株を始めたりもしました。でもだめなんです。普通は株が安いときに買って、高くなったら売るんでしょう。私は逆。高くなったら買って、安くなったら売ってしまう。病気の影響で、子供がおもちゃをほしがるみたいに人気の出ている高い株が欲しくなり、安くなると興味がなくなってしまう。こんなことを毎日していましたから、お金がどんどんなくなっていきました。

 しかも、そんなむちゃくちゃな株取引のために、妻を毎日走り回らせていました。妻は不渡りを出さないように、必死だったようです。ときには、私に証券会社と電話で話させないよう、受話器の奪い合いまでしました。

 ただ、私自身は取引に自信満々、得意満面で天才だと思っているんです。鬱の時期には、なんて恥ずかしいことをしたんだと思うんですけど。

                ◆ ◇ ◆

 妻には苦労をかけましたが、娘は躁状態の私を面白がっていました。だから、家族が壊れずにいたんでしょう。躁から鬱への波もあり、夫婦別居もしましたが、基本的には悪い人じゃないと思ってくれていたようです。寛大な家族に助けられたと思います。

 父の斎藤茂吉も激しい性格で、母も苦労したようです。母は似た境遇の妻を理解し、妻に「主人と思ってはだめ。看護婦のつもりでいなさい」なんてアドバイスもしたようです。

 躁状態のときに「日本から独立する」と、「マンボウマブセ共和国」の設立を宣言したこともありましたが、妻は株をやめることを条件に、国旗を作ってくれました。                ◆ ◇ ◆

 私は、あまり躁や鬱が知られていない時期に、自分の病気を作品で紹介しました。あのころ、この病気の認知度は低く、仕事を断る際に「鬱だから」と説明しても、相手はピンと来ないようでした。

 それでも、紹介した効果はあったようです。鬱になった人は大抵、悩んで病気を隠したがるんですが、「作家の北さんと同じ病気ですね」と言われると、気が楽になるらしいと知人の精神科医にいわれました。これは結構、世の中への貢献だったと思います。

 現代は多くの人が鬱になる時代。平和の時代だから、自分の欠点を見つけて責めたり、他人と自分を比較して鬱が生まれてしまったのでは。私は戦争も経験しましたが、あのころは、死が身近にあるせいか、鬱というのはなかった気がします。

                   ◇

【プロフィル】北杜夫

 きた・もりお 昭和2年、東京生まれ。東北大学医学部を卒業、船医としての体験を書いた「どくとるマンボウ航海記」がベストセラーに。同年「夜と霧の隅で」で芥川賞。代表作多数。父親は歌人の斎藤茂吉。

(2009/04/09)