産経新聞社

ゆうゆうLife

老いと生きる 漫才師・島田洋七さん(59)(上)


 ■義母の介護で佐賀に転居 毎日話しかけ徐々に回復

 漫才師の島田洋七さん(59)は10年前、義母(86)が倒れたのをきっかけに、自身の故郷でもある佐賀への移住を決意。妻の介護をサポートした。妻が毎日、付き添うようになり、義母の状態は徐々に改善。島田さんも「ファン1号」の義母の回復に胸をなで下ろしている。(文 佐久間修志)

 10年前の夜中に、嫁さんのお母さんが倒れたという電話があって。たまたま早く帰ってたら、部屋から嫁さんの泣き声が聞こえて。びっくりしてねえ。泣かないもん、普段は。

 3日、4日ももたん言われてたけど、1週間か10日くらいで意識は戻った。でも、しゃべれんからね。生きているだけ。でも「家族がそばにいた方がええ」って、1年くらいは嫁さんが東京から毎月行くようになった。1カ月のうち、2週間は佐賀で、残りは東京。

 最初は張り切っていくんですけどね。疲れちゃうんですよ。目覚ましい回復はなかったし。帰ってくるときに疲れるんだよね。親を残して心配なのと、離れるさみしさ。不平はあまりこぼさない嫁さんも「もうちょっと佐賀が近ければね」って。

 それで嫁さんが毎日、親といられるように、って佐賀に家を造ったんです。内緒で土地を探して。8割くらい完成して、介護に行くときに「おれも一緒に行く」って言うて。家は空港とお母さんがいる施設の間にあったから、途中で車を止めた。それで「これ、おれの家やー」って。嫁さんが「また、うそばかり」って言ってたら、作業していた大工さんが「おおーい、島田さーん」って。嫁さんも「うえぇー」(笑)。

 理由はまあ、あと10年くらいしたら佐賀に暮らそうと思うてたから、ちょっと早めただけやって言いました。お母さんが理由だなんて照れるやん。漫才師やから、ホラで生きてるし。

                  ◆◇◆

 お母さんは漁師の奥さんやけど、おしゃれな人やった。仲良かったですよ。東京に家出したおれと嫁さんに、お父さんは怒っていたけど、お母さんは布団とか送ってくれた。おれのことを「おもしろい、おもしろい」って言ってくれて。「面白いだけでええやん。ウチのお父さんは真面目で面白くないし」って結婚に賛成してくれた。漫才で売れる前からの「ファン1号」ですよ。

 しかも、肝が据わってて。去年は足に血栓ができて、右足を切断したんです。それでも「大丈夫」って、元気でしたね。

 佐賀に家を買って、嫁さんは毎日お母さんに会えるようになった。あることないことしゃべって、脳が活発になりました。

 話しかけるのがいいってことは、知り合いの先生に教わった。でも、いくらいい病院だって、先生や看護師さんは忙しいから、ずっと話はできない。「薬ですよ」「ゴハンですよ」。それくらいよ。そこで、嫁さんがベッドのそばで話し続けた。テレビの話や相撲の話、天気の話。赤ちゃん言葉じゃなくて、普通の大人に話すみたいに。

 そうしたら、3カ月くらいで言葉を思い出すみたいに脳の回路がつながった。最初は「うー」だけやけど、それに表情がついてきた。子供で言えば、0歳児が2歳、3歳になり、だんだん、分かるみたいに。

 今では、移動こそ車いすだけど、かなり反応できる。とりあえず、こっちの話すことは、全部分かるみたい。本当に佐賀に家を建てて、よかったよ。

                   ◇

【プロフィル】島田洋七

 しまだ・ようしち 昭和25年、広島県出身。漫才コンビ「B&B」で、1980年代の漫才ブームを牽引。その後、祖母との暮らしを描いた著書「佐賀のがばいばあちゃん」がベストセラーに。現在はタレント活動のほか、講演で全国を飛び回る。初監督作品「島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん」が5月9日から全国公開。

(2009/05/05)